5月31日毘砂別 様変わりした毘砂別・幾春別川

  • 2020年思い出の釣行記No.8
  • 様変わりした毘砂別・幾春別川
  • 5月31日 毘砂別
     川ガレイ8枚
  • ルアーマンとサーファーで占拠された海岸線
     前野氏から電話をいただいた。新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が解除されたこともあるので、毘砂別にでも釣りに行かないかというお誘いだった。前野氏は今年になってまだ一度も釣りをしていないという。一も二もなく同行をお願いした。毘砂別は20年も前に一度、職場の同僚に誘われて行ったきりだ。そのときはホッケを何本か釣った記憶がある。
     我が家には午前3時半に迎えに来てくれた。雲一つない紺碧の空を映した穏やかな海原を望みながら、厚田からの海岸線を浜益に向かって進んだ。新送毛トンネルから山道を抜けると鄙びた漁村の街並み見えてきた。海岸線にはルアーマンが浜益方面に向かって所狭しと立ち並んでいた。以前は釣り人などほとんど見かけることのない海岸だったが、今ではサクラマスやヒラメのメッカとなっているのだ。岩場のある岬方向はどうかと進んでみたが、ここでも盛んにルアーを飛ばしている若者がいた。ルアーマンの隙間を狙って投げ釣りの竿を出す余裕はないようだ。
     仕方がないので、浜益漁港へと向かった。しかし、今度は投げ釣り師達が並んで竿を出している。砂浜をルアーマンに占拠された投げ釣り師たちが逃げ込んだのだろう。さてさてどういたしましようか。幌漁港や雄冬漁港、増毛漁港にまで足を伸ばしましょうか。まだ午前6時だが、朝マズメの良い時間帯は刻々と過ぎ去ろうとしている。
     前野氏と相談し、もう一度毘砂別に戻ってルアーマンの間隙を縫って竿を出そうということになった。毘砂別方向に進んでいくと、朝早くから来たルアーマンが帰ったのだろうか、二人が竿を出す隙間ができたので、そこで落ち着くことにした。
     すぐに、恒例のアカハラが挨拶してくれた。遠投してもアカハラばかりだ。ダブルダブルと忙しくしていると、アカハラとは違うアタリが出た。川ガレイだった。そんなことで、アカハラの合間に時たま川ガレイが釣れてくる状態だった。前野氏も同じ状態だが、丁寧に打ち返している。
     サーファーが波乗りをしだした。そして、しだいにその範囲を広げ、海岸線にいるルアーマンを駆逐しだした。私たちの背後でも、ボードを持った若者達が集まりだしウエットスーツに着替えだした。4輪のバギーカーが暴走しながら私に向かって突っ込んできた。小川が流れている段差でジャンプしてそのままスタックしてしまった。それでもエンジン音を轟かせて砂煙をあげながら抜け出した。そして、その周辺で黒い排気ガスを立ち上げ続けている。「退けれ」という脅しらしい。
     このまま続けていると一悶着ありそうな気配が漂ってきたので、不承不承釣りを終えることにした。釣果は手の平大の川ガレイが8枚だった。
  • 前野氏はアカハラばかりで呆れてしまっていたが、竿を出せたことには満足したようだ
  • カレイを捌いていると、胃の中からイソメが出てきた。随分と鮮やかなイソメだ。よくよく見るとアオイソメを模した疑似餌(ワーム)だった。こんなものを胃に入れて糞詰まりしないのだろうか。それとも消化しきれないものは異物だと思って口から吐き出すことが出来るのだろうか
  • 6月9日 幾春別川
    ニジマス1(リリース)
  • 一服の清涼感
     まだまだ新型コロナウイルスによる雑音が抜け切れていない。渓魚に会いに行こう。陽が高く昇ってしまったが幾春別川へと向かった。だが、魚が現れてくれない。ここぞと思われるポイントでも一向にアタリが出ない。少し大きめの淵ではウグイが群れているだけだった。山女魚だと思ったのは、パーマークの違うニジマスだったりした。
     それにも増してこの渓流は、以前よりも流れ落ちる水量が少ないように思う。桂沢ダムのかさ上げによる国道452号線の付け替え工事のため、以前の橋桁よりも大きなコンクリート製の橋桁が出来た。その橋桁の回りにもなだらかなコンクリート製の土手が築かれている。以前のような淵がなくなり、渓の流れはだらだらとした真っ直ぐなものになってきた。いつもならまだまだ先へと渓を遡っていくところだが、希望が持てそうもないので川からあがることにした。
  •  唯一救いだったのは、川を遡っている途中で、可憐な花が迎えてくれたことだ。鬱蒼と茂った川辺に一輪の可愛い花が姿を見せたのだ。サクラソウ科のクリンソウ(九輪草)だった。
     また、同じ川辺に親子と思われる3頭の鹿を見つけたことだ。河原に芽生え始めた若草を食んでいた。静かにカメラを向けたのだが、その私に気がついたのか、渓の奥の方へと姿を眩ませた。
  • 左下奥に鹿が若芽を食んでいるのが分かるだろうか
  •  私は今になって考えることがある。自分は、この釣りを趣味にしてきた人生の中で、はたして何を得て、何を失ったであろうか? これは私にとっては、難問である。私は釣りを通して、自然の美しさや尊さを知った。反対に、破壊されて汚れていった自然をいやとなるほど見てきた。川は死んだ川になった。ダムが出来て流れは涸れ、道路開発で土砂に埋まってしまった渓流。埋め立てられコンクリートで固められた浜、海岸へ下りることが出来たつづら折りの旧道は、長いトンネルや大きな橋が出来、更にフェンスで閉ざされ、行く手を阻まれている。それらを見たり知ったりしての辛い思いや悲しみは、自然を愛し、その尊さを知る釣り人であるがゆえに、おそらく普通の人よりも強いのである。
     一方で私は、これからの人生についても考えなければならない年齢に来ていることも悟る。体力が衰えてきた今では、大岩が織りなす荒磯や行く手を阻む渓流に立つことは出来ない。手近な磯や川でお茶を濁さらざるを得ない。まあ、それでいいのだろう。そうして緩やかに年老いていくのも仕方がないのだろう。