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Steve Reich、1976 年作曲の代表作。小生が聴いているのは 1996 年録音の Nonesuch 盤です。
どういう音かというと minimal です。Reich 自身は「minimal 言うな」と言ってるらしいが minimal です。minimal だが単調ではない。いや単調なのかも。単調さは絶えず変化に晒され、連続する音が時の経過と共に変容していく。変容した先にも単調さがあり、それが幾重にも折り重なることで複数の時系列が混在し音楽を為す。音の重なりは、ぱっと聴いた感じでは偶発的なもののように聞こえる。minimal であり minimal でない、とはそういうこと。
そりゃあ Neu! だって minimal ですよ。しかし "Music for 18 Musicians" には実は偶発的要素なんて欠片もないのである。これは計算尽くの音。演奏の姿勢は classical。ここで鳴る音は演奏家の音というよりは作曲家の音で、Bach も Reich も同じ土俵に居ると言えなくもない。この音楽には隙がない。ここで鳴り響く音に自由はなく、あるのは伽藍構築に邁進する演奏家達の姿だけである。だからこの演奏家達には顔がない。そういう世界だ。
とはいえ、この伽藍は荘厳で美しい。延々と脈打つ pulse は音の終末を限りなく引き延ばし、その上で軽やかに舞い交う piano や voice は電車の外を流れ去る風景のように「停滞しながらも変化し続ける」。我々は立ち止まりながら移動する。行き着く果てについて心配することは何もない。今ここにいる自分に出来ることも何もない。状況に身を委ね、pulse に耳を傾ける。それは安心できる世界であり、多少懐かしい気分にも誘われる。
後になって、それを体験していた頃の自分を思い出そうとしても、そこからは朧気な記憶しかすくい上げられないだろう。しかし自分がそこに居たという印象だけは鮮明に残る。それは大事な思い出だったかも知れないし、全く取るに足らないことだったかもしれない。だが、記憶の残滓など大した問題ではないのである。これは体験の音楽。常に鳴り響く心音に耳を傾け、自分がここに居ることを確認するための音楽なのだから。
「よいか。人間は愚かさゆえ時として取り返しのつかぬことをしてしまう。それは本当に取り返しのつかぬことである。だが神はそうではない。神の定めて為すことに取り返しのつかぬことなどひとつとしてないからだ」
祝融は、とん、と顔回の背を押した。
「おまえは人間である。だから能く定めて為すことをあやまれば、すぐさまとりかえしのつかぬことになろう」
「はい」
「では定めて為してこよ。急ぎ」(p413)
もう 8 巻か。前作『医の巻』では何とか子蓉の攻撃を交わした南方医師だが、よっちゃんが未だに子蓉の手の内にあることは変わらない。ついに医師は南方の神に頼み込み、顔回をよっちゃんの内面世界へと送り込む。そして医師と物付きのよっちゃんとの戦いが始まるのである。
一方、よっちゃんの内面世界へ潜り込んだ顔回は、神たる祝融の導きで九泉を経巡り、幾多の苦難を越えてよっちゃんと子蓉のもとへ辿り着く。しかし九泉から連れ帰れるのは一人だけと聞かされ悩む。子蓉は奥の手の孔子(!)を顔回にぶつけて追い込もうとする。だが顔回は、目の前の孔子が偽物と看破するのであった。
今回も驚天動地の展開で楽しめます。医師と戦うよっちゃんは何故か分身し、九泉では神々が争い、顔回は切れて孔子に殴り掛かり、子蓉は敵である顔回を庇いだてたりもするという。ほんとに展開が読めません。そして酒見流の空想と史実を巧みに織り交ぜる物語りもますます冴えてます。お陰で、目まぐるしい展開の筈なのに何処か長閑に話が進んでしまい、読書子としては楽しいけどじりじりさせられるので嬉しいやら悲しいやら。
しかもまだ九泉の話は続くと来た。えええっ!? こんなところで 8 巻終わりかよ。続きは、続きはいつ出るんですか新潮社さん!
「image album なんて買ったの久しぶりです。定価で買ったのは初めてかも」
「めたらーも墜ちたな。この anime かぶれが」
「いやそりゃ非道い言い方ですね。image album だから質が劣るって決めつけるのは問題ですよ」
「そこまで言ってないよ何つっかかってんの。そんなに照れることもないでしょうが」
「照れてません」
「まぁ、買ったってことは商品価値を認めたってことで、めたらーにも思うところがあったのでしょう」
「本編でも古楽的な approach で灰羽の世界を演出した大谷 sound を元にして、伊藤真澄さんと上野洋子さんが可憐な歌声を披露する album です」
「tr.1 "聖なる憧憬" から vocalies な雰囲気。これ聴いただけで良い album だって解ってしまうな。original の歌も、本編で使われても違和感ないような空気感があるし。歌は流石に上手です」
「どこかしら懐かしさを誘う melody も甘美。image album だけあって、聴いていると様々な情景が浮かんできます」
「なんだ、良い album じゃないか。image album つーと collector 向けと思ってたが、ちゃんと作ってあるんだな。これなら classic の棚に置いててもいいんじゃないか」
「こういう繊細な音を楽しむ album が CCCD でないのは有り難いことです」
「anime の soundtrack とかで CCCD なんて、するだけ無駄な気がしますが。あゆくらい売れるならまだしも」
「でも FFX2 のサントラは CCCD らしい」
「そりゃあ捌ける量が違うからでしょう」
「灰羽の album もそれくらい捌けたら平和な世の中になるかもね」
「すると灰羽の album も CCCD になるでしょう」
「それでは平和な世の中とは言えんわい」
「罪の輪ですな」
「って意味不明すぎ……」
「tr.7 "空にありがとう" の recorder が可愛いです。クウの theme というのも納得」
「こういうのもキャラソンて言うのか?」
Kenny Drew というと piano trio 編成での演奏は良く聴くのだけれど、これは tenor sax に Warne Marsh を迎えての album。1980 年録音。Drew お得意の jazz standard 集ですが、Warne Marsh による original も 2 曲収録。
つーても Warne Marsh て人については詳しく知らないです。知らないんですが Kenny Drew とは相性良さそう。小粋で洒脱で上手い。Kenny Drew もいつも通りな軽妙さ。この人の piano は軽やかなところが良いのです。tr.3 "On Green Dolphin Street" で見せる激情も、洗練されていて爽やかな印象を残す。tr.9 "Star Eyes" のようなゆったりした slow ballads も、寄せては返す波を放心しながら眺めているような気分にさせる。
最後の tr.10 "Softly as in a Morning Sunrise" もすっきりまとまった演奏。朝日のように爽やかに……という title は、この album 自体を象徴しているかの様に気持ちよい締めくくりとなっている。
先日、トロッコを手で押していったというのは内緒です(爆)。乗って動かせるとは存じませんでした……。
娘さんとおてて繋いで門の外に出ようとしたら、怖いオバさんに行く手を阻まれ恐喝されたところから再開。燈台を押しまくっていると内門が開いたので、のこのこ後戻りする。
行き止まりで爆弾投げて遊んでいたが、少女に諭されて爆弾点火して道を切り開く。
先に進むと墓場でカゲマンに襲われるが何とか撃退。沈む床が 2 箇所あって、これは 2 つとも沈めないと扉が開かないのだけれど、あいにくと手近な重しは 1 つしかない。あまってた爆弾をえっちらおっちら持ってきて置いても、重しにはなってくれなかった。仕方ないので少女を重しの代わりにして少年は一人先に進む。
暗い部屋に入ったが何していいのか解らぬ。椰子の実みたいなものがあったので掴んで投げたら割れて飛び散った。不穏な空気を感じて後戻りすると少女がカゲマンにさらわれていたので棒を振り回して撃退。
とまぁ今日はこんな感じでした。
うわわわわっ。激 minimal! ねえさん今回はどうしちゃったの!?
というわけで detroit techno の生き証人、K. Hand 姉さんの 2001 年発表作。Tresor から。
今までの album も確かに techno な音だったのだけれど、控えめで emotional って image があったわけよ。だがこの "Detroit-History Part 1" では凄まじく硬派でパキパキな minimal techno の嵐。部屋で聴いていてもカラダが揺れる。underground な荒っぽい雰囲気と、粘っこい bass line、けたたましく疾走する bass drum、いかん、格好良すぎ。tr.13 "CPOP" の housy で melodious な展開も良い accent になっていて。夜中だというのに思わず volume を上げてしまう罠。力作です。tr.1 "Rain-Interrude" と tr.15 "Sun-Interlude" は、album の開幕と閉幕を彩る ambient な曲で、これを機に曲名を確かめてみると tr.4 "Demf Anthem" なんて名も。そうか、DEMF へのオマージュにもなってるわけやね。いやぁ、力作。techno の楽しさを知るに足る 1 枚です。
Wim Wenders 監督作品、1984 年。
Texas の砂漠を彷徨っていた男が、息子と出会うことで自分を取り戻し、妻を探しに行く……という話。
もうね、冒頭、埃まみれの服を着て、砂漠の真ん中にぽつねんと立ち竦む Travis (Harry Dean Stanton) の姿が何とも印象的なのですよ。何でこいつはこんな所におるんや、って。水を求めて立ち寄った診療所でも、医者に一言も口利かないし。遠路はるばる弟がやってきても話しないし。行方不明だった四年間、一体何処で何をしていたのか。やがてぽつぽつと話を始める。「テキサス州のパリ」と書かれた看板が砂漠の真ん中に立っている写真を、Travis は大事に持っている。そこが自分の生まれた土地であり、妻と一緒にいた頃買った土地だという。そこに行けば自分はやり直せる、と思って歩き続けたのだ、と。
かつて Travis は Jane (Nastassja Kinski) と結婚していて、息子の Hunter (Hunter Carson) と三人で暮らしていた。しかし四年前、何かが起こって一家は離散。Hunter は弟夫婦に引き取られていた。父と息子は久々の再開を果たすが、お互いにその実感が沸かない。しかし何はともあれ二人は親子なのである。Hunter は父が未だに母を愛していることを看破し、Travis は父親らしく振る舞おうと立派な服を着る。やがて Travis は Jane を探す決心をする。息子に相談すると、Hunter は即座に自分も行くと言う。かくして親子二人で母探し。このあたり、Hunter の親代わりを四年間務めた弟夫婦の描き方も上手いです。Hunter の心が Travis に流れていくのを自然なことと思いながらも、自分の息子も同然と思ってもいる。その微妙な心の揺れ。
やがて親子は Jane を見つける。Travis は四年前に伝えられなかった自分の心境を Jane に話す。Jane もまた、四年前から自分の時間を止めてしまっていた。Travis は、一緒には暮らせないと言う。Jane は Travis にとって、あまりに大切な存在でありすぎるため、一緒にいると Travis は壊れてしまうのである。Travis は Hunter の居る Hotel の名を告げて去る。マジックミラーを挟んで話し合う二人の scene も良かったです。会話は電話越し。越えられない距離の暗喩。結局、二人は手を取り合うこともない。残酷で美しい絵だ。
Jane は Hunter の部屋に赴く。この再開の場面は見事。二人がお互いに見つめ合い、言葉を出そうとしても何も口から出てこない。ただ近づき、抱きしめ合う。そして Hunter が、四年振りに出会った母親に向かって言う。「ママ、髪が濡れてるね……」。おいおい、こんな台詞で良いのか? でも泣けます。言葉だけで伝わらないものもある。Travis は Hotel の窓を見つめ、静かに車に乗り込み、何処かへと去っていく。
Ry Cooder の音楽も寡黙だったなぁ。アコギでじわりとした情感を演出。砂漠らしい荒涼とした音世界で、街中の情景でもアコギが鳴っていたら、それは Travis の心の砂漠を表してもいるわけで。孤独でいるってことの寂しさよ。
そんなこんなで Wenders 映画の中でも傑作のうちに入るでしょう。こういう映画も撮れるんですねぇ……。
「そして、ジヴラシア。もうひとつの答えだが、私が貴様の名前を知ったのはたった今だ」
「だがよ−−」
炎上する宿で、俺を助けた甲斐があったと言った筈だ−−そう続けようとした俺をアドリアンが遮る。
「しかし、貴様という存在は知っていたと言える。名は知らずともな」
「−−どういう意味だ?」
「魂は受け継がれる、ということだ」
アドリアンは謎めいた微笑を浮かべた。(p178)
読了。忍者のジヴラシアを中心に物語は進む。冒険の目的であったル・ケプレスの宝珠を手に入れた直後にリルガミンを怪異が襲う。王宮を襲う得体の知れぬ妖獣。古代の王国から来たと嘯く魔導師の麗人。伝説の宝剣ハースニールの登場。そして、落盤で出入り口をふさがれた迷宮に取り残された party を救い出すべく、一行は切り立った梯子山を登る。
というわけで、fantasy とは言いつつも魔物をばさばさ打ち倒して経験値ためてワードナ倒すぜイエェという展開では全くないので、意外な方向に話が向かってます。けっこう面白いかも。下巻にも期待しましょう。
Senegal 出身の大 artist、Yossou N'dour の代表作、らしい。Yossou の album もこれ 1 枚しか持ってないからね。1990 年発表。まぁ、最近では HONDA Step Wagon の CM で "OB-LA-DI、OB-LA-DA" 歌ってる人、と言った方が通りが良いかもしれない。あの CM も長いよね。ハマり曲ってことですか。
album は全体通して疾走感が気持ちいい出来。minimal な phrase の中でも感情豊かに歌う Youssou、上手いです。如何にもな african percussion に、synthesizer や horn も使って modern な音作りをしているのだけれど、わざとらしさは感じられない。tr.7 "Miyoko" の pop な仕上がりを耳にしてると、身体が暖かくなっていくなぁ。同じ様な感覚は tr.9 "Fenene" にもあって、土着的な beat と暖かい feeling が無垢な装いのままで展開していく点がこの album の特色と言えると思う。歌詞は serious らしいけど、小生は歌詞読まないから解りません。album の中には ballad も何曲か含まれているけれど、そこで響く歌声に寂しさはなく、常に外部へ開かれて何かを訴えかけている。開放感と positive な勢いが広大な世界を夢想させる。箱庭に籠もらない pop さ、ってのもいいもんですよ。
tr.13 "Ay Chono La" のアコギ、懐かしい響きだなぁ……。
1997 年発表の ECM 盤。
Nils と言えば不思議な冒険である。Debut 作でありながら club music への傾倒ぶりが既に窺える。D'n'B から音響系まで取り込みながら、Nils Petter Molvaer の trumpet が寂寥たる世界に響き渡ると、そこには Norway の峻厳な環境が浮かび上がるのであった。暗いよ怖いよの音世界だが、そこには闇夜に煌めく日本刀のような、底知れぬ美しさも秘められている。Eivind Aarset の guitar も、危うく妖しく noise を撒き散らす。
こういう音は jazz らしくないのだけれど、じわじわと背筋を震わせてきます。映画音楽的な得体の知れなさ、とでも言うべきか。想像力に満ちた ambient。寒い冬に、もっと寒くなる音楽。
朝、通勤電車の中で貧血起こして倒れました(爆)。
本読んでいたら頭から血の気が引いていき、耳鳴りがして視界が霞み、立っているのも辛い状況に。とりあえず次の停車駅で下車なので、それまで我慢しようと目を閉じた。
すると、そのまま落ちてた。
次に意識が戻ったときは電車の床にぶっ倒れていて、駅員の方に抱えられてホームに担ぎ出されるところだった。当然小生は訳が分からず混乱していて、とりあえず駅員さんに担がれてました。
その後、駅中央の事務室みたいなところで暫く休ませて頂きました。大宮行き京浜東北線が 3 分ほど遅れるとの放送も耳にしたな。うぅ、皆さん申し訳ない。
で、数分寝ていたら体調が良くなった。書類に名前を書いてから外に出て、その足で出社しました。
駅員の皆様、ありがとうございました。
会社に出てその話を上司に報告すると、病院に行けとのお達しを頂きました。ついこの前に健康診断を受けた所に出向いて診て貰いましたが、格別異常はないとのこと。朝飯抜きで出社しようとしたのと、寝不足なのと、食生活が乱れているのが原因のようだ(爆)。ちゃんと水分補給するように、って言われました。うんうんそうだよなぁ。気を付けます。
「潔ちゃんて、本当にすごいねー、私も行っていい?」
「君は来ないで。女の子が一緒だとやりにくいんだ」
「絶対嫌だ」
「じゃ訊くなよな!」(p214)
ぷぷぷ。小学生でも御手洗は御手洗だったか。
今回の御手洗潔、幼稚園児の頃と小学生の頃の事件が語られている。とはいえあの超絶推理は幼少時から開花しまくっていて、警官のおっさん達はやはり愚鈍に描かれているためになおさらその飛び抜けた視界の広さを感じさせる。そして幼稚園児の頃から女性のハートを鷲掴みにしていたというおまけまで付いてるぞ。
事件を解決することによって他人の人生を狂わせることが善なのか悪なのか、幼い頃の御手洗も悩んだようだ。見えすぎるが故の苦悩を若くして味わっていたのか。そういう事件を乗り越えて成長していったんだなぁ。