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読了。「オタクから見た日本社会」という副題からも解るように、気鋭の若手批評家である東による現代サブカルチャー論という体裁。でも面白いよこれ。オタクという語で人括りにされる人たちを、世代間に三つに分け、それぞれを社会の層で切り離して考えるという点がまず斬新。
第一世代は 60 年前後生まれを中心とする、いわゆるガンダム世代、第二世代を 70 年前後生まれを中心とするポストガンダム世代、そして第三世代を 80 年前後生まれのエヴァ世代(ただし、実際に批評対象になるのはむしろエヴァ以後、ポストエヴァ世代というかデジキャラット世代)の三つに切り分ける。この分類で行くと小生はポストガンダム世代とエヴァ世代の橋渡し的な位置づけだな(歳がばれるでわないか)。
そしてこれらの世代に社会的な潮流を当てはめると、ガンダム世代は即ち旧来の国家主導的な価値観に一槌を食らい「大きな物語の凋落」を体感した世代と位置づけられ、故に「ガンダム」や「ヤマト」のような、大きな物語に飲み込まれつつそこから逸脱しようと足掻く主人公達の物語が共感を得たとされる。第二の世代は既に「大きな物語の凋落」を自明の物とし、その空疎さの中で偽りの幸福に酔いしれようとする世代と位置づけられる(具体的な事例としては「メガゾーン23」くらいしか上がってこないが、むしろ押井の「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」を挙げるべきか)。そして第三世代は、大きな物語の影響から完全に脱し、物語もキャラクターも細分化・要素化されて、データベース的な消費対象へと還元され拡大再生産と再消費を延々と繰り返す世代となる。
その第三世代の特性を象徴するキーワードとして「萌え」を取り上げるところは流石の慧眼である。確かに「萌え」は大きな物語の磁力から解き放たれた地平から生まれる概念と言える。「萌え」るための要素は「ねこみみ」「メイド」「無口」など、明確に細分化されてしまうし、作り手もまたそれを意識して新たな「萌え要素」の組み合わせによってある程度の売れ筋を狙うことができる。キャラクターがそのように措定されることによって、そのキャラクターを駆動させる物語もまた「萌え」に寄り添う形でミニマルに類型化される。そして消費者も「萌え要素」をブランドのように品定めして飽くなき消費欲求を満たそうとする。それは文学がかつて追い求めた、真実の大いなる物語の虚像として用意された現実の物語ではもはやなく、腹が空いたら食い、眠くなれば眠るという動物的な欲求の中に、単に「萌え」を満たすために物語を消費するという欲求充足の一形態としてしか機能しない物語に過ぎない。そして、「メモリーを失って悲しんでいるのは、この街の老人達だけだ」。東の舌鋒は、大きな物語の喪失を嘆く老人達を後目に、現世の満たされぬ若人達を容赦なく分析する。
ただし東は、この世界が今どう動いているかについては明確に分析するけれど、これからどう動いていくかについては明言を避けている。ポストモダンは「動物化」の極限に向かってしまえばそれ以上進みようがないからかもしれないし、或いはそこで破綻が生まれた後の世界は想像を絶しているからかもしれない。翻って小生はどうかというと、大きな物語の残滓に未練を持ったまま、萌えの潮流にも乗れず、老人の気分をほのかに噛みしめるという状態だったりする(笑)。
読了。短編集だが、純粋なミステリと言えるのは「IgE」「ボストン幽霊絵画事件」の二作に限られる。他二作のうち、「Sivad Selim」は音楽家としての御手洗をフューチャーした、ちょっとハートウォームな小話。それにしても Sivad Selim と競演とはね……。どっちかってゆーと Aeroc Kcihc と絡む方が matching しそうだけど。「さらば遠い輝き」は、松崎レオナが石岡くんに敗れる話(笑)。決して石岡くんの position に入り込めない自分の立場に苦しむレオナが哀れよのぅ。
「IgE」は島田荘司の面目躍如たるヘンテコな話。逃げられた女を捜して欲しいと御手洗に泣きつくオペラ歌手。何度も壊されるファミリーレストランの小児用便器。一見無関係なこの二つの事件が、御手洗によって一つに寄り合わされる。自分の行ったことのないレストランに石岡くんを配して、まるで見てきたかのように指示を下す御手洗。そして御手洗の予言通りに事が進んでいく……。いや面白かったよ。意表を突かれっぱなしで。久々にまともなミステリを読んだ気分だったな。
「ボストン幽霊絵画事件」は、若き日の御手洗潔が海の向こうで奇人ぶりを発揮し、友人から 100 ドル巻き上げる話。自動車修理工場の名前板に銃弾が打ち込まれたらしい。それも Z の右肩部分狙って 12 発も。この些細な事件から、御手洗は殺人事件の臭いを嗅ぎ出す。純粋に推理のみで真相を探り当てるが、その後のヒネリが効いている。佳作ですね。
たまには日記らしい日記を。
12 時離床。freeform 聴きながら『コズミック』読む。
外出して朝食買って帰ってきて「アームズ」見ながら食事。終わったらまた『コズミック』。
ふらりと外出、池袋まで行って散髪。
それからジュンク堂書店へ。洋書で、G.R.R.Martin の "A Song of Ice and Fire" 第三巻を発見。んがしかーし! なんと二分冊の下巻しか置いてない(爆死)。てゆか分冊ですかぁ(泣)。小生は半年くらいかけて "A Clash of Kings" 読んでるんですけど……。字は細かいし 700 ページ越えてるし。George、書くの早すぎるよぉ。仕方ないから今回は購入を見送った。Amazon にでもお願いするかな。
同じ階の音楽コーナーで、Techno 系の本を二冊購入。文庫では『ジョーカー』(清・涼)を購入。さぁ、何時読むんだ(笑)。
池袋と言えばお馴染みのルートで Wave へ。Terry Riley の新譜に心惹かれつつ、Dan Curtin の変名での新譜も見なかったことにして、Ze-Koo から出た新人の album も置き去りにして、入手したのは Organ Language と Speedometer. の二枚。手堅く行き過ぎてるなぁ最近。新人の album なんてここ暫く買ってないよ。
スーパーで買い物してから帰宅。「009」見ながらコンビニ弁当。買ってきた album 聴きながら『コズミック』(清)読了。そして今日ももうすぐ終わる……。
speedometer の新譜というか mini album というか。6 曲しか入ってないので。
それにしても、いつも通りの音だなと。小生も "...or not" 以降の album は realtime で聴いているけれど、speedometer こと高山純の姿勢は、作を追っても寸分の揺るぎもない。それは新譜に thrill を求められないという意味では negative な姿勢にも思えるのだが、ここまで自分の世界を築き上げられると、jazz と同じで「speedometer. というジャンルを聴く」という感じになってしまって、それはそれで artist への誉め言葉になってしまいそう。そういえば小生も、club music を聴くという姿勢よりは、fusion を聴いているような気分になることしばし。