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noise が人を苛立たせるのは何故だろう。そこに透き通った倍音が聞こえないからだろうか。そこに秩序正しい和音が鳴り響かないからだろうか。それはそうなのだろう。しかしそれ以上に、noise は日常をあまりに意識させるからではないだろうか。空調の鈍い doroon や、車の delay、雨が庇を無秩序に打ちつける音も、煙草を吸い込むときにも繊維が炭化する際のひりついた音も、聞こうと思えば聞き取ることができる。ただ、それを無視することで、生存に役立ちそうな音(人の声)や、もっと秩序と快楽に満ちた音(きらきらした歌謡曲)に耳を傾けるようになってしまい、日常に埋没する雑多な noise には価値を認めなくなってしまうのだろう。
ただ、だからといって noise が存在しなくなるわけではないし、日常が煌びやかな音だけで溢れることもない。そして見えない noise が、あるとき Verb の CD のように package されて耳に届くとき、日常の中には雑多でありながら静謐な emotion が潜んでいることに気づかされる。それはやはり地べたの音だと思うし、そうした音を面白がる自分を見失いたくはないなと思わされたりもする。