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ペレンスの「ソフトウェア特許 vs フリーソフトウェア」を読んでみた。大企業は互いのソフトウェア特許をクロスライセンスして、絶えざる競争から生ずる緊張を緩和してる、って意見、うーむ、そうだったのか。本当の論点はソフトウェア特許で武装した企業と、その企業のソフトと競合するフリーソフトウェア開発者との戦いにある。ペレンスは法廷での戦いではフリーソフトウェア開発者に勝ち目がないと明言している。しかしその一方で、ソフトウェア特許はフリーソフトウェアの開発を阻害しており、それはソフトウェアの進歩にとっては大きな損失だとも言っている。ここでもまた経済と文化の鬩ぎ合いを見る思いだ。どうもこういう論争になると、お互いの折衝点を見いだすのが難しくなるなぁ。小生は優れたソフト作ってそれを売るってのは別に構わないと思うけれど、だからといってフリーの競合ソフトをパテントで蹴落とすのは感心しない。パテントで武装するより先に、売り物になるようなものを作ってるかどうか自問して欲しいものだ、某企業には。
そこにある風景は既に見た風景だが解体され細分化され再構築され変容された部分の集合体と化した挙げ句最早かつての面影は失われたと錯覚させられる。
エモーション? オリジナリティ? それはパーツに依存する? アーティストの人格はパーツに影響する?
回転する透明な台子のように音は弧を描きつつ回り続ける。一個体として質量共に完結していると思い込むのは早計だ。見方が少し異なれば全く別の様相を示す。絶えず鳴動しているならそれはプロセスの持続を意識させるだろう。絶えず変容するならそれは此処ではない何処かへの旅を意味するだろう。
何処から来て何処へ向かう? 瞬間を捕らえた瞬間にそれは手の内を抜け出てしまう。未だ見ぬ明日へと近づけば近づくほど遠ざかる時間。音よ、留まるがいい。そして裏切るがいい。
引っ越し当日。
午後からという話であったが10時半頃には既に業者到着。のんびり荷物纏めてた小生はまだ荷物の包装が完了してなかったので焦りまくるが、業者の見事な手際によってあっという間に荷出しが終了してしまった。見事。プロの技を見た思い。
軽く掃除して新しい部屋へ移る。荷物が到着する前に電気や水道の手配をしようとしたらどちらも休みだとか(泣)。そういや電話の移転手続きしようとして116へかけたら「コンピュータの故障で移転手続きは当分できません」と言われたし。うーむ、引っ越し当日にやらかそうとしたのが誤りの元か? ガスは何とか明日に使えそう。って電気も水道も勝手に使ってるがそれは内緒だ。
18時過ぎに荷物到着。いざ部屋に入れてみると、段ボールの山で部屋の6割が埋まってしまうという状態に。いくらなんでも多すぎるのぅ。まぁ収納に文庫本は放り込んで何とか寝るスペースは確保できた様子。PCもオーディオも何とか以前の状態まで組んだし。前の部屋より狭いのでCDの置き方とか工夫しなきゃなるまい。
冒頭、"Cartoon"のユーモラスなメロディを聴いた瞬間からブレイの世界に引きずり込まれる。小生がブレイを「体験」したのはこのアルバムからと言っていい。いや確かに"Open to Love"は先に聴いていたのだが、正直言って当時は付いていけなかったのだ。今あのアルバムを聴いても、恐らく幾ばくかの近寄りがたさを感じることだろう。それは孤高のピアニストたるブレイの姿をまざまざと見せつけてくれる、それ故に生半可な気分では耳を傾けられないのだ。が、65年吹き込みの"Touching"は、ブレイ、ケント・カーター、バリー・アルトシュルの三筋の糸が妖しく絡み合い緩やかに解れていく、その過程を楽しむだけの隙間がある。ブレイのピアノは、ソロで聴いていると空間の隅々までブレイの空気に支配される。ピアノの減衰やブレイクまでもがブレイの感覚器として聞こえてしまう。しかしカーターもアルトシュルも、ともすれば緊縛的なブレイのピアノを解体し、ブレイの空間を外へ外へと解放する。結果、三人の支配する空間が部分的に重なりながらも遠ざかり、音の中心点も一カ所には固定しないで揺れ動く。それを面白がっているのが見えるようで楽しいのだ。個々の曲も緩急バラエティに富んでいるし。
おお、"Closer"の静謐な響き。取り留めのないブレイのピアノ。アルトシュルはスネアの鳴動で答える。カーターのベースはブレイに寄り添うようでいて、どこか遠方で響いているようにも聞こえる。30年以上も前のアルバムだが、ブレイはやっぱりブレイだなぁ。