おわりに 一年と四か月をかけて、江戸御府内八十八箇所霊場を廻り、「東京お遍路」の小さな旅を終えた。ただ歩き続けるのだったら、一か月もあれば十分だが、詣でた寺院の縁起を調べたり、好奇心の赴くまま、思いつくままに文章にまとめていたら、こんなにも長い日時が掛かってしまった。四国を歩いたときは一年と8か月を要したが、この時は一応会社顧問と云う仕事を持っていて、休日を利用しながら四国へ通ったので止むを得なかったと思う。今は違う。毎日が「日々之退屈」の連続なのだ。なれど、暇つぶしのお遍路は出来る限り先送りにして、長続きさせた方が良い。その方が、心身の健康を持続させることが出来ると云うものだ。 百観音の御本尊様は、当たり前のことだが観世音菩薩様だ。八十八箇所霊場の御本尊様には如来、観世音菩薩、それに明王、天に至るまで、様々な仏様がいらっしゃる。百観音を廻り、四国霊場を廻り、江戸御府内八十八箇所霊場を廻って多様な御本尊様にお参りしてきた。日本には七万数千の寺院があるそうだから、私が歩いてきたのは、その内のごく僅かな寺院にしか過ぎない。 仏教とは、お釈迦様を開祖とする宗教であると思っていたのに、釈迦如来を御本尊様にした寺院は殆んど無い。調べてみたら、四国八十八箇所霊場の第1番霊山寺、第3番金泉寺、第49番浄土寺、第73番出釈迦寺、第74番甲山寺。江戸御府内八十八カ所霊場では、第9番龍巌寺の1寺院しかない。大日如来や阿弥陀如来の方がずっと多い。 御本尊様を前にして、義務のように唱え続けた般若心経だが、冒頭は「観自在菩薩、行深般若波羅密多時、・・・」で始まる。観世音菩薩、つまり観音様が、「波羅密多という有難い行を深く修行しました・・・」という文言である。お釈迦様ではない。般若心経とは観音様が修行して得た悟りが書き残されて、お経になったらしいのだ。 仏教の開祖、即ちお釈迦様、それに如来様、観音様、それぞれの違いと、仏教の道理を考えていたら、何だか混乱して、よく分からなくなった。確かなことは、釈迦如来は実在した人物だが、それ以外の仏様は、想像された仏法世界にある象徴だと云うことなのだ。 どこかのページにも書いたが、それぞれの如来様を仏教会社の取締役に準えれば(・・・このことは、誠に不謹慎だと思うが・・・)、釈迦如来は代表取締役で社長だと単純な思考で整理していた。どうも、そんな単純な図式になっていないようだ。キリスト教やイスラム教は、唯一絶対の神を信じる一神教だから単純だ。仏教の世界は多くの神が役割を分担している多神教なのだと考えると、何となく整理する糸口が見つかったような気がする。 四国の札所を廻ると、必ず団体お遍路に出会う。ツアーに同行する導師の指導によって、南無大師遍照金剛と唱え、般若心経の合唱が始まる。弘法大師が修行した足跡を辿るわけだから、すべての寺院は真言宗である。このことから、般若心経は真言宗にとって重要なお経なのだと云うことが分る。他に、法相宗、天台宗、禅宗では般若心経を唱えるが、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、法華宗では唱えない。この区別も、なぜだか分らない。 仏教は宗派によって様々な違いがある。分派も多くて、多種多様な教義が展開され複雑である。宗派によって祀りや勤めの作法が違うのだから、ややこしいこと、この上もない。葬儀に参加して、「南無阿弥陀仏」と、「南無妙法蓮華経」のお題目を違和感なく唱えているが、よく考えたら、これもややこしい。 「南無阿弥陀仏」を唱えるのは、浄土宗(開祖・法然)、浄土真宗(開祖・親鸞)、天台宗(高祖・天台大師)、念仏宗(宗祖・良忍)、時宗(宗祖・一遍上人)。「南無妙法蓮華経」を唱えるのが日蓮宗(宗祖・日蓮)。それに、「南無釈迦牟尼仏」と唱えるのが曹洞宗(高祖・道元)、黄檗宗(宗祖・隠元)、臨済宗(開祖・栄西)で、先にも書いたが真言宗は「南無大師遍照金剛」である。宗派としては、ここに上げた以外にも「華厳宗」や、「律宗」、「法相宗」などがあるが、唱える文言はよく分からない。 日本に仏教が伝来したのは飛鳥時代で、宣化天皇3年(538)であるとするのが一般的になっている。インドで成立した仏教が、中国大陸を経て、長い年月をかけて日本に伝わってきたのだから、その間に教義は分化し、体系は複雑化してしまった。 さらに、日本は自然崇拝の神様の国である。仏教も日本固有の神と区別しながらも、同列に扱って受け入れてきた。そして、多くの開祖たちは、時の権力を利用したり、されたりしながら、一大教団を作り上げてきた。一方で、庶民の士族的な風習とも結びつき、日本独特の風土の中で、今の時代に馴染んだ、実に日本的な仏教が育ち、この複雑怪奇な仏教図式を作り上げてしまった。そりゃぁ、凡人には理解できないのが当たり前だろう。 歩くことは苦行である。けれども、これだけお遍路、巡礼を続けてきたのに、未だに煩悩から抜け出せぬ。これじぁ、何のために歩いているのかよく分からないではないか。歩き疲れた足を労わりながら、我が家に辿り着き、お湯に浸かって足を揉み解す。湯上りのビールを飲む。この時ほど、穏やかな気分になることはない。一瞬だが、迷いが解けた様な錯覚に陥る。これが、やっと辿り着いた我が悟りの境地だ。情けない話だが、凡庸な精神では、このレベルなのだ。