和泉仲通りから住宅街に入って行った。狭い通りに小型のトラックが駐車していて、その脇を抜けようとした宅急便のトラックが立ち往生していた。しばらく待ったが、らちが明かないので、別の道に逸れて歩くことにした。これがいけなかった。なんせ細い通りが、複雑に入り組んでいる住宅街である。すっかり方向を見失ってしまった。どこをどう歩いたのか、文殊院の勝手口と思える通用門に辿り着いた。扉の把手を回したら、難なく開いたが、どうも様子が違う。裏口から侵入して、「ごめんなさい」という塩梅だ。一旦後戻りして、通りをぐるりと回って山門前に出た。
文殊院は、遍照山高野寺文殊院と号し、高野山真言宗の寺院である。縁起によると、開山は高野山興山寺の木喰応其上人で、慶長5年(1600)に勢譽師が徳川家康の帰依を受けて駿府に寺地を拝領し開創したとある。寛永4年(1627)に江戸浅草に寺地を賜り移転し、元禄9年(1696)に麻布白金台町(今の港区白金台)へ移り、さらに、大正9年(1920)に区画整理で現在地に移転してきたと云う。
この文殊院は、江戸期には「高野山行人方触頭江戸在番所」として真言宗では重要なお寺だったそうだ。江戸在番所には、「学侶方触頭江戸在番所」と「行人方触頭江戸在番所」があって、学侶方番所は、仏教を学び、祈りに専念する僧侶たちを統率する役割を持ち、行人方番所は、施設の管理や、日々の炊事・給仕などの実務を行う僧侶たちを統率していた。学侶方は、公家や武家などの家系から出家した者がほとんどで、行人方との間に身分差があり、両者でしばしば争いがあったと云う。
元禄年間(1688〜1703)の初めに、学侶方の僧と行人方の僧との対立が激しくなり、行人方が敗訴した結果、文殊院は寺地を没収されてしまった。縁起で見ると元禄9年(1696)に白金台に移転したとなっているが、この時、「高野山総分方在番所」として名誉を回復し、再建されたのである。
ところで、学侶方江戸在番所は第1番札所の高野山東京別院である。御府内88箇所は学侶方の高野寺から始まり、行人方の高野寺で終わる。宝暦(1751〜1763)の頃、下総国松戸宿の諦信親子が発願して、江戸に88箇所の霊場を開いたと伝えるが、第1番札所に学侶方を置き、終いの第88番札所に対立した行人方を置いたのには、何らかの思惑が働いたのか、それとも偶然なのか。何か因縁を感じる。
札留寺の第88番文殊院、これで結願だ。それにしても、88箇所を廻り終えたというのに感動が湧かない。四国を歩き終えた時もそうだった。未熟な己を思い知らされ、寂しさだけが残る。 (2012年10月17日 記)
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