第30番放生寺(ほうじょうじ)

      山号 光松山(こうしょうさん)
      住所 新宿区西早稲田2-1-14
      参詣 2012年5月5日
 
放生寺の本堂
 
  
 放生寺は穴八幡神社に隣接していて、向かい側に早稲田大学文学の校舎がある。境内はさほどの広さは無いのだが、大師像があり放生供養塔や放生池がある。他にも、水掛け地蔵像や役行者を祀る神変大菩薩堂などがあって、賑々しい。絵馬堂もあった。
 縁起であるが、境内に、當山由緒沿革と書かれた立札があるので抜粋する。「放生寺は寛永18年(1641)威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。良昌上人は…中略…、諸国を修行していた折の寛永十六年二月霊夢の中に老翁現れ、「将軍家の若君が辛巳の年の夏頃御降誕あり、汝祈念せよ。」と告げられ、直ちに堂宇に籠って祈願致したところ、同年厳有院殿(四代家綱公)御降誕されました。…略…」
 長くなるので後は省略するが、このことが三代家光公に伝わり「威盛院光松山放生會寺」の寺号を賜り、爾来徳川家の祈願所となって、葵の紋を寺紋にすることが許された、と書いてある。最後の方には、「本尊の聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称された。」とある。穴八幡神社が、江戸の庶民から蟲封じの神様として信仰を集めていたので、別当寺である放生寺の聖観世音菩薩も、蟲封じの観音様として親しまれていたのだろう。
 不思議に思うのは、役行者(役小角)を祀る神変大菩薩堂があることだ。神変大菩薩とは役行者のことであり、放生寺の縁起には、その関わり合いについて、どこにも触れられていない。一体、放生寺とどんな繋がりがあるのだろう。
 役小角は飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。実在の人物だが、後世に伝えられた人物像は伝説的である。通称が役行者(えんのぎょうじゃ)で修験道の開祖とされている。続日本紀(797年に完成した史書)や日本霊異記(822年完成といわれる歴史説話集)には、役小角にまつわる荒唐無稽な逸話が収録されているが、史実として受け止められる記述はほとんどない。熊野や大嶺の山々で修行を重ね、呪術宗教的活動を中心として、神仏調和を唱えたが、その呪術的活動から699年に時の天皇に謀反の疑いをかけられ、伊豆大島へ流刑となった。701年に疑いが晴れ、故郷に帰った後に没している。
 穴八幡神社にお参りした。四十数年ぶりに参拝したのだが、境内は綺麗に整備されていて、遠い記憶の中にある古色蒼然とした佇まいは感じられなかった。昔日の面影はない。驚いてしまった。
(2012年5月28日 記)
 


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