第54番新長谷寺(しんはせでら)
         (目白不動)

       山号 東豊山(ひがしぶざん)
       住所 豊島区高田2-12-3
       参詣 2012年5月5日
 
金長谷寺・目白不動の本堂
 

 新長谷寺は目白不動のことである。このことを知らないと、とんでもない破目になる。金乗院と同じ番地なので、同じ境内にあることは想像できる。さほど広くもない境内だから、すぐに分る筈なのだが、新長谷寺を示す文字はどこにもない。一旦、山門から外に出て、辺りを歩いてみた。左隣は小学校だし、山門を背にして左側に延びる宿坂道を登ってみたが、高台にある金乗院の墓地の先には、落着いた住宅街が続いている。寺院らしき建物は見当たらない。もう一度後戻りして、山門の左側に建っている石柱を確認したら、「東豊山新長谷寺」と彫られていた。再び山門を潜り、境内に入った。
 境内の高台に、先ほどから何度も目にしている仏閣がある。石段があって「目白不動御参道」と書いてある。般若心経を唱えながら、不謹慎にも、きょろきょろと辺りを見渡したけど、新長谷寺を示す文字は見当たらない。目白不動堂が新長谷寺なのかも知れないと思い、帰宅して、忘れて行ったガイドブックで確認したら、その通りだった。事前の準備を怠ったことを悔やんだ。
 新長谷寺は、元はこの場所から一キロほど離れた関口二丁目にあった。江戸切絵図で見ると、神田川沿いに、目白不動別当新長谷寺の文字が見える。昭和20年(1945)の東京大空襲により壊滅的な被害を受けて廃寺となり、本尊の目白不動明王は金乗院に移されたという。だから、一般には金乗院が目白不動として知られる様になったと云うことだ。六本木にある、第6番札所、不動院のところでも書いたが、五色不動の一ヶ寺であり、目白という地名の起こりにもなっている。
 縁起だが、江戸名所図会の記述を要約すると、本尊の不動明王像は、弘法大師空海が出羽の湯殿山で彫った二躯のうちの一体で、この地の住人松村氏某により、関口の地に祀られたと云う。関口は「堰口」と書かれていて、目白不動堂は、堰口の漄に臨む、と記されている。後に、この寺は、「元和4年(1618)に、大和長谷寺の僧、秀算によって中興され、二代将軍徳川秀忠の命により本堂が建立され、和州長谷寺の本尊と同木同作の十一面観世音の像を写し、新長谷寺に改めた、」とある。その一方で、三代将軍家光からは目白不動の名を賜ったとあるが、親子による扱いの違いは何だろう、その辺の経緯が、ちょっと気になるところだ。
 江戸名所図会には、「麓には堰口の流れを帯び、水流淙々として日夜に絶えず、早稲田の村落、高田の森林を望み風光の地なり。境内貨食亭(註:料理屋)多く、何れも漄に臨めり。」と書かれている。
 (2012年6月57日 記)
 


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