第86番常泉院(じょうせんいん)

      山号 金剛山(こんごうさん)
      住所 文京区春日1-9-3
      参詣 2012年4月9日
 
気になる木板

 
 水戸徳川家上屋敷は、今の後楽園遊園地から東京ドーム、小石側後楽園、文京区役所のある文京シビックセンター、礫川公園から中央大学理工学部まで、この広大な一帯を占めていた。上屋敷の裏手にあった坂道が富坂である。鳶が多く生息していたので、鳶坂が転じて富坂になったという。
 富坂を上って坂上の信号を左に入ると、右手に西岸寺に続いて常泉寺がある。左側は中央大学の構内で、樹木が生い茂っている。江戸切絵図で見ると、水戸殿の屋敷が終わった西側に、ちゃんと西岸寺と常泉寺が書かれていた。
 赤煉瓦の塀が門前にまで続いている。寺院という雰囲気ではない。境内は狭いが、丁寧に掃き清められていた。右手に2階建ての本堂があるが、どこか、普通の民家のような佇まいで、他人様の家に無断で入り込んだ気分になる。石段を上り、本堂の前で般若心経を唱える。
 境内に、文字を彫った木の板が、ガラスを張ったケースに納められていた。文字が反対になっていないから、版木ではない。ガラス張りで、二本の鉄棒で補強されている。この木の板に、何が彫られているのか、よく分らないが、頑丈に保管されているのだから、貴重な史料なのだろう。
 木の板は周辺が欠けているが、まず、府内八十八ヶ所寫、その左に小石川七軒町、次の行に、金剛山常泉院と掘られている。その後の数文字が判読できない。続いて、草書体のくずし文字で歌が彫られているのだが、知識のない私には読めない。ただ一箇所だけ、志渡寺の文字は分る。志渡寺は、四国八十八箇所札所の第86番で、讃岐にある。常泉寺は、その写しだ。
 木板の最後の行は、寛政四子七月、願主井筒屋○七と読める。○の部分は判読できない。寛政四年(1792)は壬子の年である。何を願って納めた木板なのか、肝心の歌が読めないのだから、分らない。江戸時代の版元に歴代続いた井筒屋があるが、この願主、井筒屋と関連があるのだろうか。それとも井筒屋は商人なのか、はたまた歌舞伎役者だったのか、商売繁盛、芸の上達を祈念して納めたのか、気になる木板だ。縁起では、寛永四年(1627)に今の地、小石川七軒町に創建されたという。木板にも、小石川七軒町と彫られている。もう一度訪れて、何が書かれているのか、教えを乞うことにする。  
 境内には、「日本近代登山之先駆者 小島烏水 永住之地」と彫られた、小さな石碑が建っていた。日本山岳会の初代会長である。 (2012年5月1日 記)
 


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