第46番弥勒寺(みろくじ)

     山号 満徳山(まんとくざん)
     住所 墨田区立川1-4-13
     参詣 2011年11月21日
 
境内にある杉山和一の墓

 亀戸天神には寄らないことにした。予定していた時間から大幅に遅れてしまったからだ。蔵前橋通りを西に向って急ぎ、三ツ目通りの手前で大横川に架かる法恩寺橋を渡った。近くに地元近隣町会との繋がりが深い「法恩寺」がある。橋の名称は、ここから来ている。私は、三十代の頃、転勤で広島から東京に赴任して、この付近で二年半ほど暮らしたことがあり、法恩寺には多少の縁がある。
 大横川は、現在では埋め立てられて親水公園として整備されて、東京スカイツリーのある業平から、竪川と交差する江東橋まで、憩いの場所として続いている。
 三ツ目通りを左に折れ、南に向って歩く。竪川に架かる三之橋を渡ると立川三丁目だ。町名には竪川でなくて立川の文字が当てられている。これは住居表示が整備されたときに、当用漢字に「竪」の字が無かったからだそうだ。なんだか安易なような気もするし、ちょっと寂しい気持ちにもなる。
 立川三丁目交差点先を右折して、西に向って暫らく歩くと弥勒寺の門前に出た。弥勒寺はマンションの谷間にあった。縁起によると、慶長15年(1610)徳川家康から江戸鷹匠町に寺地の下賜を受け建立され、当初は弥勒菩薩が本尊であったとのこと。後に、徳川光圀から薬師如来を寄進されたことから、今のご本尊は薬師如来になったそうだ。
 境内の左手奥に杉山流鍼術の祖、杉山検校(和一)の墓がある。検校とは、盲人の官位として最高位の名称である。杉山和一は、津藩(三重県)の家臣、杉山重政の長男として誕生するが、幼時に伝染病で失明し、家督は義弟に譲り江戸に出て鍼術を学び、努力を重ね杉山流鍼術を創案した。貞享2年(1685)の正月、将軍綱吉の病を治療したことから、幕府の信頼を受けることとなり、後に検校に推挙された。綱吉の鍼治振興令を受けて、鍼術振興に努め「杉山流鍼治導引稽古場」を開設し多くの鍼師を育てている。そんな歴史的背景があって、弥勒寺では毎年9月15日に針供養が行われている。
 本来、針供養は「事始め」と云われる2月8日に行われることが多い。また、「事納め」の12月8日にも行われることもある。この二つを一緒にして「事八日」と呼んでいる。農家がその年の農作業を開始するときが旧暦の2月8日頃であり、その年の農作業を終えるのが12月8日頃であったところから来ている。今では、「事八日」は、針供養の日としてお針子さん達が、折れた針を豆腐やこんにゃくに刺して川に流したり神社に納めたりして、裁縫の上達を祈願した日だということで定着している。
 般若心経を唱え終わり、瞑想から冷めたら、辺りの暗さに気付かされた。今日の予定は後2箇寺。急がなくてはならぬ。  (2012年1月11日 記)
 
 


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