第12番宝仙寺(ほうせんじ)

      山号 明王山(みょうおうざん)
      住所 中野区中央2-33-3
      参詣 2012年7月2日
 
宝仙寺、三重塔

 大久保通りとの交差点を渡り、地図を見ながら、右折して遊歩道に入って行った。頃合いを見て左折したが、少し行き過ぎてしまったようで、宝仙寺の外れに出てしまった。宝仙学園と実践学園の間を抜け、右折して宝仙学園の中を通り、宝仙寺の裏側に突き当たった。さらに、道なりに進んで、やっと山門前に辿り着く。宝仙寺の周りを半周以上も歩いたことになる。これだったら、多少の大回りになっても、青梅街道から入ってきた方が良かったようだ。
 宝仙寺に隣接する宝仙学園は、昭和2年(1927)に宝仙寺第50世住職の富田大僧正によって創設された私立の総合学園である。仏教精神を基調に、「人を造る」教育を実践しているとのこと。
 山門には阿吽の仁王像があった。広い境内には堂塔が立ち並び、本堂や大書院に並んで、大師堂、御影堂がある。珍しい三重塔もある。史跡として、中野町役場跡を示す石碑や、石臼塚がある。宝仙寺は、興味の尽きないお寺である。
 石臼塚の由来について、次のように書かれた説明板があった。
 「中野区と新宿区との間を流れる神田川には、江戸時代から水車が設けられていて、そば粉を挽くことに使われていた。そばの一大消費地となった江戸・東京に向けて玄そばが全国から中野に集められ製粉の一大拠点となり、中野から東京中のそば店に供給されたため。中野そばとまで言われるようになった。その後、機械化により使われなくなった石臼は道端に放置され見向かれなくなっていった。それを見て当山、宝仙寺第50世住職、富田○(註:学の旧字にぼくづくり)純大僧正が、人の食のために貢献した石臼を大切に供養すべきであるとして、境内に「石臼塚」を立て供養した。」と書かれている。地域の歴史を垣間見るようで、私の趣味である歴史地理学の見地からも、興味ある石臼塚だ。
 縁起によれば、寛治年間(1087〜94)に奥州の戦から凱旋して京に向かった源義家が、護持していた不動明王を安置するために建立した寺院であるという。千年もの歴史を持つ古刹である。
 三重塔は、寛永13年(1636)、飛地境内の塔ノ山公園(現在の中野区立第10中学校)に建立されたが、昭和20年(1945)の戦災で焼失し、今の塔は、平成4年(1992)に再建されたものであるとのこと。飛鳥様式で、心柱は基壇まで貫通し、純木造建築である、との説明書きがあった。
 山門を出て一礼し、門前町を抜けて青梅街道に出た。   (2012年7月28日 記)
 


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