第23番薬研堀不動院(やげんぼりふどういん)

    川崎大師東京別院
    住所 中央区東日本橋2-6-8
    参詣 2011年11月21日
 
夜陰に浮かび上がる本堂

 
 両国橋を渡り、西詰めを左折すれば薬研堀不動院は近い。赤地に白抜きの文字で「やげん堀不動尊」と書かれた幟が、数メートル置きに立っている。まっ、幟に沿って歩いていけば辿り着くだろうと思ったが、これが甘かった。と云うか、辺りが暗くなって来たし、ずいぶん歩いて疲れているのだろう、集中力が無くなってしまい、訪ねる場所になかなか辿り着かない。幟の間隔が広がって、ついには幟がなくなってしまう。行き過ぎてしまったのだろう。引き返して幟を辿る。何度も同じ道をぐるぐる廻っているようだ。辺りは暗いから遠目が効かない。イライラしてきて、もう今日は諦めて次回にしようと思ったときに、やっと見付かった。ビルの谷間に、その一角だけが灯かりに照らし出されて、明るく浮き上がっていた。
 寺院という佇まいではない。石段の下から眺めると、八角宝塔型の本堂に威圧されそうだ。奉納された「やげん堀不動尊」の幟が、石段の両脇に賑々しく並んでいる。石段を登ると、そこは本堂の屋根の下だ。天井から大きな高張提灯がぶら下がっている。般若心経を唱え終わったものの、瞑想にふける雰囲気は、まるで無い。
 縁起には、根来寺の大印僧都が戦乱を避けて不動尊像を背負い、東国に下って天正13年(1585)当地に創建したと記されている。また、明治25年(1862)川崎大師平間寺の東京別院となり、今日に至ると書いてある。根来寺の大印僧都が苦難の末に創建した寺院が、何ゆえ川崎大師の別院になったのか、大いに疑問の湧くところだが、縁起には幾多の変遷があって、とのみ記されている。古くから「目黒不動龍泉寺」、「目白不動金乗院」と並んで、江戸三大不動として知られているとのことだ。
 薬研堀は地名である。正保年間(1645〜1648)に幕府が隅田川の近くに米蔵を建て、運送手段として掘削した運河が薬研堀である。元禄11年(1698)の火災により米蔵は焼失し築地に移転した。このため、不要になった堀は埋め立てが進み、武家屋敷や町家に分割され、薬研堀町と呼ばれるようになった。現在では堀の跡を示す歴史的遺産は全く見当たらないが、古地図には薬研堀が残っている。
 地名の起こりは、堀の底が平らではなくX字形に掘削されていて、漢方薬の素材を磨り潰す道具で「薬研」に似ていたので「薬研堀」になったという。昭和46年(1971)の住居表示変更により、周辺の町を含めて東日本橋に改名され、薬研堀の地名は消滅した。
 薬研堀町には多くの医者が住んでいて、明治、大正の頃までは、通称医者町と呼ばれ、医者と薬(漢方薬)問屋が集まっていた。南米原産の唐辛子がスペインを経由して、漢方薬の材料として渡来し、この地で七味唐辛子として薬研堀の名物に発展した。 (2012年1月20日 記)
 
 


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