第87番護国寺(ごこくじ)

      山号 神齢山(しんれいざん)
      住所 文京区大塚5-40-1
      参詣 2012年5月5日
 
本堂須弥壇階
 
  
 縁起について、『江戸名所図会』の記述を抜粋する。
 「・・・略・・・。当寺は、延宝九年(註:1681年で天和元年)二月七日上野国八幡別当大聖護国寺の住持法印亮賢に、高田御薬園の地を給ひて寺とす。依って大聖護国寺と号す。・・・略・・・、その後元禄年中桂昌院殿一位尼公の御志願によって、御薬園の地を転じ、その頃建立ありし江戸蜜乗最大の梵宇にして結構備はれり。春時は桜花爛漫として、頗る地勢洛の御室に髣髴たり。」とある。
 つまり、上野国の亮賢が、五代将軍綱吉の実母桂昌院に招かれ、将軍家の祈願所として創建したということだ。高田御薬園とは幕府が拓いた薬園であり、寺院建立のため白山に移された。今の小石川植物園である。洛の御室とは京都右京区の御室のことで、真言宗御室派の総本山「仁和寺」があり、今でも桜の名所として知られている。
 護国寺の境内は広い。『江戸名所図会』の挿絵には、今と同じに、広々とした境内が描かれている。京都を歩くと、広大な敷地を持つ寺院は珍しくはないが、東京都内で、これだけの広さを持つ寺院は少ない。惣門を潜り、仁王門を潜り、石段を登って不老門を潜る。石段の下、両側に桂昌院が寄進したという手洗水盤がある。大正期までは、境内の湧き水を利用した大変珍しい自噴式洗水盤だった、と説明されていた。
 本堂は開け放たれていて、須弥壇に祀られた観世音菩薩を拝むことが出来る。頭上に悉地院(しっちいん)と書かれた扁額がかかっている。五代将軍綱吉の自筆になるものだと云う。詳しいことは分らないけど、由緒ある寺院の場合は、山号があって院号があり、寺号がある。護国寺は「神齢山・悉地院・護国寺」となる。
 大型連休中にも関わらず、参拝客は少ない。誰憚ることなく般若心経を唱えた。境内を散策しながら、本堂手前の右手奥にある大師堂にもお参りした。来るときには気が付かなかったのだが、仁王門の背面に、唐風の武将姿をした増長天と広目天の像が安置されていた。増長天は、その手に刀を持っている。広目天の持ち物は何なのか、よく分らない。普通は、その手に筆を持ち、巻物に何かを書き留める姿で表現されることが多いのだが。
 音羽通りを牛込に向って歩く。散策する熟年夫婦に多く出会う。 (2012年5月16日 記)
 


第79番 専教寺←                 →第22番 南蔵院


東京お遍路のtop頁へ

東京お遍路その8端書きへ


烏森同人のtop頁へ