馬込文士村の住人達   
JR大森駅西口向かい側にある文士達のレリーフ
 
 
 
 ちょっと寄り道します。
 新編武蔵風土記稿に次のような記述がある。
 「馬込村は郡の中央にあり、古は駒込とも唱へしと云、されと【小田原分限帳】に馬込と記したれば、馬込の方古き唱なるへし・・・中略・・・村内の家數三百七軒東は大井、一の倉に隣、西は池上村にましはり、南の方は桐ヶ谷村に續き、北は、大井、上蛇窪、中延の三村に界ふ・・・中略・・・此所は土地高低多し、故に土俗には九十九谷ありと稱す、あるいは十三谷といへる、小名もあり、其谷々の間にある平地に陸田をひらけり、是を下り畑と呼ふ、水田はことに少なし、それも天水を湛へて沃き入ゆえ、常に用水の足らさるを患とす・・・以下略・・・」
 新編武蔵風土記稿は、文化・文政(1804〜1829)期に編まれた武蔵国の地誌である。ここに書かれているように、もともと馬込村は、武蔵野台地の先端にあって、侵食によって刻まれた谷が入り組み、複雑な地形だったことが分る。うねうねとした起伏が続き、畑を耕し、刈り入れに精を出している農民の姿を思い浮かべる。都市化が進んだ今では想像もつかないが、それでも起伏に富んだ道路脇には緑が多く、閑静な住宅街が続いている。
 大正後期から昭和初期にかけて、荏原郡馬込村を中心に、多くの文士や芸術家が住んでいた。現在の住居表示だと、大田区の山王、馬込、中央の一帯である。当時の馬込には、新編武蔵風土記稿に記されたような、武蔵野の面影が色濃く残っていたのだろうと思う。神社仏閣の古刹が点在し、起伏に富んで広がる長閑な田園風景が続いていたのだろう。芸術家や文士達は、武蔵野の自然に触れて、創作活動に疲れた心身を癒したのだ。
 多くの文士達が住み着いた馬込一帯を、何時の頃からか「馬込文士村」と呼ぶようになったという。毎年桜が最盛期を迎える四月の上旬、南馬込4丁目から6丁目にかけての桜並木で、「馬込文士村大桜祭り」が催される。今年は、3月の東日本大震災による自粛ムードもあってか、中止されたと聞いた。文士達が住んでいた住まい跡にはモニュメントが置かれている。今度、かつて文士達が歩いた武蔵野の散歩道を散策してみる。
 大田区立馬込図書館の資料から、馬込文士村の住人達の名前をメモする。何か話の種になるかも知れない。(以下、アイウエオ順)

石坂洋次郎、稲垣足穂、今井達夫、宇野千代、尾崎士郎、片山広子、川瀬巴水、川端茅舎、川端康成、
川端龍子、北原白秋、衣巻省三、倉田百三、小島政二郎、小林古径、榊山潤、佐多稲子、佐藤朝山、
佐藤惣之助、子母沢寛、城左門、添田さつき、高見順、竹村俊郎、萩原朔太郎、日夏耿之介、
広津柳浪、広津和郎、藤浦洸、真野紀太郎、牧野信一、真船豊、間宮茂輔、三好達治、山本周五郎、山本有三、吉田甲子太郎、吉屋信子、和辻哲郎、村岡花子、室生犀星、室伏高信。

 42名を書き出したのだが、JR大森駅西口を出て、通りの向かい側にある天祖神社下には、43名の顔がレリーフされて、石垣に埋め込まれている。それぞれには名前が刻まれているが、もっと多くの文士村住人がいたのだろうと思う。 (2011年12月7日 記)
 
第8番 長遠寺←                 →第37番 満徳院
東京お遍路のtop頁へ
東京お遍路その3端書きへ

烏森同人のtop頁へ