第61番正福院(しょうふくいん)

      山号 望月山(ぼうげつざん)
      住所 台東区元浅草4-7-11
      参詣 2012年1月18日
 
浅草區と書かれた正福院の表札

 
 一旦、浅草通りに出て上野方面に向かい、二つ目の信号を左折して左衛門橋通りに入ると、左手に正福院がある。門前に、第六一番正福院と彫られた三角形の自然石が立てられていて、柵で囲んであるので、直ぐに分る。ただ、山門は左右に石柱が立てられているだけで、普通の民家とあまり変らない。   
 来歴によると、開基は望月貞久で慶長16年(1611)、今の東日本橋に創建され、正保元年(1644)に現在地を拝領し移転した、とある。そう云えば、山号は望月山である。
 正福院は「柳稲荷」とも呼ばれている。なんでも、望月貞久の子孫が、夢の中で京都伏見稲荷から「一顆の玉と弘法大師御作の十一面観世音菩薩を与えるので、この地に一社を建立せよ」、とのお告げをうけ、日本橋浜町に伏見稲荷の祠を祀ったとのこと。後の、享保3年(1718)に正福院境内に遷され、柳の木の下に祀られたので「柳稲荷」と呼ばれるようになったという。浅草通りの地下を走る地下鉄銀座線に、稲荷町駅がある。かつては稲荷町という地名があった。今の東上野2丁目から4丁目である。「柳稲荷」と関連付けたいところだが、江戸時代には「伊勢屋に稲荷に犬の糞」と云われたくらい、あっちこっちにお稲荷さんがあったから、全く関連はないだろう。
 正福院は、昭和20年(1945)の東京大空襲で建物は全焼し、昭和28年(1953)に再建されたそうだ。山門の石柱に正福院の表札が埋め込まれている。そこに記された住所は「浅草區南松山町九番地」と書いてあった。昭和22年(1947)3月に下谷区と浅草区が合併して台東区が生まれているので、この門柱は正福院が再建される前から建っていることになる。そして戦火からも免れたのだ。
 下谷区と浅草区が統合されて、台東区が生まれたわけだが、武蔵野台地の東端に位置するので、台地の東、すなわち台東の区名の起こりだろうと思っていた。違った、そんな単純なものではなかった。なんでも、中国、清の康熙帝の勅撰により編纂された「康煕字典」の中に、「台東」という熟語があって、「日出る処、衆人が集まって栄える場所」の語義があるとのこと。また「台」には「悦ぶ」の意味があり、「東」には「春」の語義があって「台」すなわち上野山、つまり下谷区。浅草区はその東に位置するので、これほど理にかなった地名はない、と云うことから名付けられたのだそうだ。
 般若心経を唱える。本堂という趣はない。なんだか他人様の玄関先でぶつぶつ言っている気分だ。次の成就院も近い、通りをぐるりと廻った反対側だ。 (2012年2月4日 記)

 


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