東京お遍路 その6 谷中寺町界隈

歩いた日は、2012年2月27日。
お参りした寺院は、第53番自性院、第49番多宝院、第55番長久院、第63番観知院、第57番明王院、第42番観音寺、第64番加納院の7寺院。

地下鉄銀座線の稲荷町駅で下車して歩き始めた。清洲橋通りから言問通りに出て谷中に向った。快晴である。暫らく歩くと汗ばんできた。この日歩いた7寺院は、谷中6丁目、5丁目にまとまっていて、互いの寺院は僅かな距離しか離れていない。谷中の町は関東大震災や東京大空襲の被害が少なくて、旧来の町並みや建造物が残っている。お遍路という感覚は全く無い。懐かしい町並みと出会う谷中寺町の散歩だ。
 新編武蔵風土記に、「谷中本村は、古へ谷中町を合わせて谷中村と稱せり、江戸古図に谷中村と見え・・・略・・・、正保の改めにも谷中村とのみ載せ、元禄の改めに始めて今の如く二村に分てり、地名の起こりは上野駒込二所間の谷なれば名くと、また下谷に對せし名なりとも云へり、戸数四十四、東は金杉村西は新堀村、南は谷中町、北は三河島村なり・・・略・・・、正保の改に御料所及び常性寺領天神領交われり、常性寺領は何の頃か上りて今の東叡山領、谷中感應寺領、湯島天神社領、及牧野中務知行入合えり、日本橋より一里十五町・・・略・・・」、と云う記述が見える。
 地名の起こりは、「上野駒込二所間の谷なれば・・・」と書かれている。上野台地と本郷駒込台地の谷間に位置した土地だから、谷中と呼ぶようになったのだろうが、現在の谷中は谷間の低地ではなく、そのほとんどが上野台地にある。
 正保年間(1645〜1648)には、御料地と常性寺、天神社の領地が、谷中の大部分を占めていたようだ。後に、常性寺領が、東叡山領、谷中感應寺領、湯島天神社領などに分割されている。この常性寺の来歴を調べてみたけど、よく分らない。
 東叡山は寛永時の山号であり、京都の比叡山に対して東の比叡山の意味で名付けられたものである。江戸切絵図を見ると、今の東京国立博物館の位置が東叡山寛永寺の本坊になっている。江戸時代に寛永寺が建立されると周辺に多くの子院が建てられた。また幕府の居住地拡張事業による区画整理によって慶安年間(1648〜1651)に神田付近から多くの寺院が移転して、谷中寺町が形成されたのである。大雑把に云うと、今の言問橋の南側、上野山一帯が東叡山領なのだ。
 感應寺は山号を長耀山と云い、由来を辿ってみると護国山天王寺に改号されている。江戸切絵図では東叡山領のほぼ北側にあって広大な寺地が描かれている。明治7年(1874)に政府は天王寺の寺地を一部没収して、東京府管轄の公園墓地として谷中墓地を開設した。昭和10年(1935)には谷中霊園と改称されているが、未だに谷中墓地と呼ぶ人が多い。
 湯島天神領は東叡山領から不忍池を挟んだ西側に位置しており、広大な面積を有していたようだ。湯島天満宮の社伝によれば、雄略天皇2年(458)に、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと書いてある。江戸時代を遡ること1200年もの歴史を経ている。徳川家からも崇敬を受けており、広大な社地を与えられていたのであろう。
 これらの御料地を与えられた寺社の周辺には子院が集まり、武家地がある。さらに町家があり、低地には農家が点在していた。だから、いまでも谷中生姜の名前が残っている。
 第42番の観音寺を出て第64番加納院に向う途中で脇道に入ったら、風情が感じられる築地塀に出会った。塀の取っ付きに「まちかど賞」、と彫られた銅メタルが取り付けてあった。平成4年度に台東区が発行したもので、「景観形成に寄与されたことをたたえます」、と添えられていた。あぁ、谷中寺町を歩いているんだなぁ、と云う気分になる。


その6の目次

第53番自性院
第49番多宝院  
第55番長久院  
第63番観知院 
第57番明王院
第42番観音寺
第64番加納院


ちょっと寄り道。
仏様の位(くらい)



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