夏目坂と喜久井町、彷徨の時代  
「夏目坂通り」の道標
 ちょっと寄り道します。
 大久保通りの若松町から早稲田通りの馬場下町に向かって、くの字の形に下って行く坂が「夏目坂通り」である。東京お遍路の傍ら、45年ぶりに訪ねることになった。ここは、20歳代の8年間、将来への展望も開けぬまま、鬱々とした日々を過ごしていた場所である。
 「夏目坂」の起こりだが、夏目漱石の随筆『硝子戸の中』の一節に、「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。」と書かれている。漱石の父は夏目直克と云い、この辺りの名主で、明治5年(1872)に名主制度がなくなった後も、一時区長を務めている。
 夏目坂を下り、馬場下町に出る手前が喜久井町である。漱石は『硝子戸の中』に、「今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。これは私の生まれた所だから、ほかの人よりもよく知っている。…中略…、この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってから、年代はたしかに分からないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。私の家の定紋が井桁に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って喜久井町としたという話は、父の口から聴いたのか、または他のものから教わったのか、何しろ今でも私の耳に残っている。」と、書いている。
 昭和35年の秋、22歳で上京し、喜久井町の粗末なアパートに住んだ。それまでは、山陰の地方都市でバス会社の事務員を務めていた。バスの車掌を二年と半年務め、事務職に採用されたものの、刺激に乏しい地方都市の日々に不満があったのか、単純に東京に憧れたのかは、今になってはよく分からない。ただ、両親を早く亡くし、幼年時代は親戚に預けられて育ち、引きずっていた疎ましい環境から抜け出したいと云う気持ちは常に抱いていた。
 当時、夏目坂を下る手前に、「若松食堂」があった。時々、通った食堂である。上京したばかりの田舎者には初めての定食屋であり、戸惑うことが多かった。関東の人達にとっては当たり前なのだろうが、私には、「おしんこ」と「おみおつけ」の区別がつかなかった。関西では、そんな丁寧語は使わない。「おしんこ」は「つけもの」であり、「おみおつけ」は「みそしる」なのだ。あの思い出の若松食堂は、今は無かった。同じ場所に、洒落た店構えのトンカツ屋があった。
 昭和35年といえば、住所を異動するのに米穀通帳を必要とした時代である。米穀通帳を持って通った金井米屋さんは今も健在だった。あれから半世紀も経つ。店構えだけは変わっていた。
 夏目坂を下って早稲田通りに出た右角には小倉屋酒店があった。この酒屋には興味を引く逸話があり、漱石の『硝子戸の中』で次のように紹介されている。「…それから坂を下り切った所に、間口の広い小倉屋という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田馬場で敵を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。私はその話を子供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂の安兵衛が口をつけた枡を見たことがなかった。その代わり娘の御北さんの長唄は何度となく聞いた。」 
 
 
 私は、時折この小倉屋でサントリーの角瓶とコーラを買った。今は流行らないが、コークハイでアルコールの心地良さを、しっかりと覚えてしまった。
 小倉屋の少し手前、反対側の小路を入っていくと、突き当りに誓閑寺というお寺があり、その右手奥に、今では廃屋同然になったアパートがある。ここが、昭和35年(1960)から昭和43年(1968)の8年間、鬱々とした20代を過ごした、三畳一間の住まいであった。
 上京して最初に手にした仕事は、上京前に知人に紹介されていた町工場で、製品の封筒を自転車の荷台に括り付け 、文房具を扱う問屋に配達することだった。封筒は一枚では軽いけれども、一万枚も扱うと、重くて運ぶのは容易ではない。体力のない私は、荷台の重みで自転車のハンドルが支えられなくなり、何度も自転車を倒し、商品を傷めたものだ。その度に主人に怒られ、半年も持たずに辞めてしまった。
 4年後に東京オリンピックを控え、景気は上向きかけていた頃だから、内容を選ばなければ仕事はいくらでもあった。印刷工場で機械の設計図や建築図面の青写真を焼き付ける作業を手伝ったこともある。青写真に使用する薬品の臭いに耐えられずに、ここも長くは続かなかった。
 日立製作所亀有工場の臨時工にもなった。鍛造工場で鍛冶屋を巨大にした様なものだ。当時は各工程の製造技術は幼稚で、職場環境は酷いものだった。途轍もなく大きなハンマーが、真っ赤に焼けた鉄の塊をドッカンドッカン叩いている。耐えられない騒音だ。耳栓をすることが義務付けされていたが、もともと耳の悪かった私には、用をなさなかった。ここも一週間で辞めた。
 次に勤めたのが、玩具メーカーの「ツクダヤ」である。1960年に爆発的に売れた商品、「ダッコちゃん」を発売した会社である。商品の「ダッコちゃん」は次々とデパートに出荷されて営業マンは活気があった。町工場から納品される商品は、そのままの梱包で営業マンの手に渡って行くので、倉庫係で採用された私には、品揃作業をする必要は殆ど無く、暇な職場だった。ここも長くは務めていないが、辞めた理由が思い出せない。
 タクシー会社を転々とした。一昼夜の勤務をして、次の日が非番となる隔日勤務である。夜間にタクシー運転手が売上げを清算する場に立ち会い、その現金を受け取る仕事や、無線でタクシーを配車する仕事が主なものだった。大型二種免許を持っていたので、運転手が不足して休車しているタクシーを運転し、都内を流すことも間々あった。
 その後、縁あってガソリンスタンドの所長を任されることになった。オーナーは、私の出身地である島根県の地方都市で幾つかの会社を持っていて、月に一度上京して来た。初めは順調に推移していたスタンド経営も、価格競争の激化と共に、だんだんと資金繰りが怪しくなってきた。ガソリンの仕入れ代金は、45日サイトの支払手形を発行している。月末になると決済資金が不足し、塗炭の苦しみを味わうことになる。
 ストレスからが重なると、血の小便を排泄すると云うが、資金繰りの苦しみが重なり、真っ赤な尿が出て驚いた。考え込んでいて、トイレに入りズボンを下ろさずに大便を排泄してしまったこともある。トイレから出るに出られず、立ち往生をしてしまった。
 オーナーは、遠く離れた地方都市にいる。当時は電話をするにしても、朝早く市外通話を申し込んでおくと、やっと夕方に接続されると云う時代だ。不足資金の送金を要請するにしても、今のように、携帯電話で瞬時に連絡がつくという時代ではなかった。未熟だった私には、経理知識はないし、資金繰表の作成なんぞという知恵もない。土壇場にならないと、手形の決済資金が足りるのか足らないのか、判断がつかない。
 資金繰りの苦しみから、一刻も早く逃れたかった。オーナーとの意思疎通を図れぬままに、退職することになってしまった。暫らくは、働く意欲をなくしていた。
 二十歳代は職を転々として将来への設計図面が引けないままに、暗く、鬱々とした日々を過ごしていた。どう足掻いてみても、己の将来を託す仕事とは無縁だったのだ。けれども、「団地に住んで中古の自家用車を買うんだ!」、という、夢だけは持ち続けていた。「団地住まいと自家用車」は、当時の庶民のステータスだった。
 仕事を得るうえで、少しは有利な条件になると思い、経理専門学校に通って簿記を学ぶことにした。それまで、経理事務と云えば女性の仕事で、将来を託すに非ず、という偏見を持っていたが、勉強を始めると、この簿記なるものが、実にシステマチックに組み立てられていることに気が付き、私の思考回路に合っていたのか、僅か三か月の勉強で二級の試験に合格してしまった。
 簿記を学ぶにつれて、これはバランス感覚を身に着けるには最良のツールであると考えるようになった。一つの取引を左右両方の二面から解釈し判断する手法は、ビジネスマンの世界では必要かつ重要な条件である。「他人(ひと)のことを思う人」、この泥臭い言葉は、中学生のころに生活の面倒を見てくれた教育者の伯父が教えた言葉である。相手にも考えがあり、立場がある。自我を押し通してはならぬ。相手の立場を考えることで、人間社会はバランスがとれるのだ、と。
 高度経済成長の時代を迎え、世の中は活気づいていた。鬱々として過ごしていた私にも、チャンスが到来した。上場企業で弱電機器メーカーへの入社が決定したのである。僅か数名の採用に対して、百数十名の応募者があった。入社試験では、一般教養のほかに経理の専門知識が問われた。
 最終面談は、人材を採用する部門の最高責任者だった。すでに採用が内定していたので、雑談に終始したが、その中で「組織の長にはなりたくない。だが、この分野だけはアイツに聞け。という立場で居たい」と、いう意味のことを話した。その当時は、専門職という言葉はなかった。「組織に所属する以上は、長を目指さねばいけない。」と、訓戒を受けてしまった。
 この時、29歳である。私の人生が大きく転換した年であることは否めない。翌年、広島営業所へ転勤になり、住み慣れた喜久井町のアパートを引き払った。  (2012年4月21日 記)
 


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