高野山東京別院から近いのは明王院だ。なんと一気に84番へ乱れ打ちすることになる。途中、泉岳寺にお参りしたいと思い立ち、来た道の桂坂を下り、第一京浜に出て左に折れた。身軽にして歩きたいと思うから、ハンディ版の東京23区地図を用意したのだが、これは間違いだった。都内は住居表示が整備されているので、目的地を探すのは容易だろうと考え、第一京浜から三田4丁目に向って左折して脇道に入って行ったのだが、行ったり来たりの繰り返しで、一向に明王院に辿り着かない。一歩裏道に入ると、閑静な住宅街が続いているし、通りは自然に蛇行しているので、気がついたらとんでもない方向を歩いていることになる。四国を歩いたときには、詳細な自動車道路地図を用意して、必要なページだけ抜き取って持って行った。これは役に立った。
三田界隈は、高輪から白金方面まで多くの寺院があり三田寺町を形成している。この辺りの寺院は、ほとんどが明暦3年(1657)の大火まで、八丁堀にあったと伝えられていて、大火の後、江戸郊外の町外れに寺院が集められたようだ。幕府が危機の際には、何時でも陣屋になるように、大きな建物や敷地を持つ寺院を街道沿いに集め、外敵の侵入に備えたという。
御田八幡宮の脇を通った。さらに道に迷ってウロウロしていると、御田小学校の前に出た。江戸名所図会に、「三田或は御田及び箕田に作ると。古へ神領に寄せられし地を、御田と書きたるよし、古老の説なり。」と書かれている。御田は当て字ではなく、三田より歴史が古い地名のようだ。
明王院の本尊は、その名が示すように、不動明王である。山門を入ると直ぐ左手に金剛杖を持った石仏像があった。一瞬、明王の姿かと思ったが、明王はこんなに優しい表情をしていない。修行する弘法大師像だった。
本堂は江戸時代に八丁堀から移転したときに建立されたものだといい、小さくまとまった山門も古色蒼然とした趣があり、歴史を感じさせてくれるお寺である。
般若心経を唱え、本堂を後にして山門を抜けて振り返ったら、緑が眩しく、一服の絵画を見ているような感覚になった。明王院を出て、道路工事中で誘導している人に道を尋ねたら、迂回通路の細い路地を教えられた。なんと直ぐに桜田通りに出た。(2011年7月1日 記)
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