於岩稲荷田宮神社と四谷怪談   
於岩稲荷
 
 
 ちょっと寄り道します。
 ガイドブックを見ると、近くに「於岩稲荷田宮神社」があると書かれていたので、寄ってみることにした。「四谷怪談」で有名な、顔が崩れ怪奇な姿をしたお岩さんを祀った神社である。有り体に言えば、私は「四谷怪談」のストーリーは全く知らない。知らないどころか、これまでは「番町皿屋敷」と混同していたのだ。知識があったとすれば、芸能関係者が、四谷怪談関連の演劇、あるいは映画などをドラマ化するときには、必ずお岩さんの墓参りをするということぐらいである。さもなくば、祟られて病気になったり、怪我をしたりするのだという。
 怖い顔をしたお岩さんが、どんなわけがあって祟るのか。そんな怖いお岩さんが、なぜ神様として祀られているのか不思議だ。ちょっと興味が湧いてきた。
 「於岩稲荷田宮神社」の由緒書きには次のように書かれていた。その一部を抜書きする。
 お岩という女性は幕府の御家人、田宮又左衛門の娘で、夫、田宮伊右衛門とは人もうらやむ仲の良い夫婦だったという。しかし、家は大変貧しかったので、家計を支えるため商家に奉公する傍ら、田宮家の屋敷神を熱心に信仰していた。その甲斐あって家運は回復し、かっての繁栄を取り戻した。お岩の信仰によって田宮家が復活したという話が評判になり、近隣の人々が田宮家の屋敷神を於岩稲荷と呼んで信仰した。
 と、これだけで疑問が解決したわけではない。ますます深まるばかりだ。由緒書は続く。
 文政8年(1827)、鶴屋南北は江戸庶民の信仰を集めているお岩をモデルとし、様々な江戸の事件で脚色した歌舞伎「東海道四谷怪談」を執筆し、これが大当りで、於岩稲荷の人気はますます高まったのだが、健気な女性であったお岩に、怨霊というイメージが定着してしまった。
 ここまでは神社の由緒に書かれた内容である。だが、鶴屋南北が何故お岩に怨霊という汚名を被せたのか。
 経済的に成功したものは、往々にして、今の世でも妬まれる。江戸の町民からすれば極貧武家が、自らが努力した結果とはいえ、裕福になったのが納得いかなかったのであろう。妬みから、些細な出来事を誇大に吹聴して、田宮家は怨霊に苦しめられた、という悪意の噂話を広めていったのではなかろうか。町人は妬みから怪談話にしたて、武家は都合の良い美談として伝えようとしたのではないか。・・・というのが私の推論だが、美談と怪談の接点には複雑な世相が織り交ざっていたのかもしれない。結局、疑問は解けない。これ以上、考えるのは止めた。
 台風15号が近付いている。今にも降り出しそうな雲行きだ。予定した時間は、とっくに過ぎている。先を急ぐ。  (2011年10月6日 記)
 
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