第60番吉祥院(きっしょういん)

      山号 摩尼山(まにさん)
      住所 台東区元浅草2-4-14
      参詣 2012年1月18日
 
静寂な雰囲気が漂う吉祥院

 
 
 

吉祥院の山門には頑丈な鉄格子がはめ込まれていて、手をかけたけど、開くことが出来ない。鉄格子の隙間から眺めると手入れの行き届いた植え込みが見える。植栽が多いせいか静寂さが漂っている。
 縁起によると、開山については不詳だが、慶長16年(1611)に寺地を与えられ正保元年(1644)に新寺町の現在地に移ってきたという。江戸のはじめ、居住地拡張事業による区画整理によって多くの寺院が移転してきたが、その内の一寺である。
 門塀の隙間から覗いてみると、参道の右手に大きな石碑が見える。「贈大教普寛霊尊供養塔」と彫られているそうで、揮毫は山岡鉄太郎、あの鉄舟と号した剣客である。供養塔の主、普寛は江戸中期の修験者で、御岳講・御岳教の開祖だと云われる人物である。享保16年(1731)武蔵国秩父郡大滝村にて生まれ、長じて修験者になってからは本明院と号したとある。
 晋寛は修験者として阿闍梨にまで進んだが、その地位を捨て諸国を行脚し、越後八海山、上州武尊山等を開山、寛政4年(1792)には木曾御嶽山の王滝道を開いている。晋寛の生まれた秩父大滝には、海抜1080mの御嶽山がある。晋寛が開山したであろうことは容易に想像がつく。ひょっとしたら、こちらが本家で木曾の御嶽山は分家かもしれない。
 御嶽山は全国各地に分家があるが、その呼び名は、おんたけさん、みたけさん、みたきさん、みたけやま、みたきやま、おたけやま等、様々である。意外と知られていないのだが、沖縄には「御嶽」と書いて「うたき」と呼ぶ聖域が分布している。その数は八百数十を数えるという。簡単にいえば本土の神社に相当し、神の祭祀場所である。御嶽山も沖縄の「御嶽(うたき)」も同じ文字が当てられ、みたけ⇒みたき⇒おたけ⇒うたき、と呼び名も極めて類似している。日本語の母音は、「あ」「い」「う」「え」「お」だが、琉球方言の音韻は「あ」「い」「う」「い」「う」となるので、おたき(御嶽)が、「うたき」と変化しても不思議ではない。沖縄の人と大和民族が共通した民族であることは、言葉だけでなく、歴史学、人類学、考古学、民俗学の研究からも明らかになっている。いつ、どのような歴史的経緯をたどって「御嶽」の文字が共有されるようになったのか、私にとっては長い間抱き続けている疑問である。
 吉祥院の門前に立っている。鉄製格子戸の隙間から手を伸ばして、蝶番を外す図々しさは無い。歩道に立って帽子を取り、一礼して次の成就院に向った。(2012年2月27日 記)

 


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