第52番観音寺(かんのんじ)

      山号 慈雲山(じうんざん)
      住所 新宿区西早稲田1-7-1
      参詣 2012年5月5日
 
ミュージアムのような観音寺
 
  
 馬場下通りから早稲田大学正門に出て、大隈通りに入って行くと、ほぼ正面に観音寺が見えてくる。・・・が、小さなミュージアムの様な建物で、とても寺院だとは思えない。散策中の婦人が、「あらぁ〜、お寺じゃないのぉ〜」と、吃驚した様子で、連れの旦那様に声をかけていた。入り口の右側に石仏が数体建っているので、お寺だな、と云うことは分かるが、風情は感じられない。まっ、東京お遍路、これだけのお寺を歩いて来ると、様々な寺院に出くわす。
 創建は寛文13年(1673)で、開創は賢栄和尚と伝わっている。御本尊は、天台宗の智証大師円珍の作で、十一面観世音菩薩とのこと。円珍(814〜891)は、平安時代に唐に留学し、密教経典を伝えた八人の僧の一人である。最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、宗叡を加えて、「入唐八家」と呼ばれている。円珍は、讃岐国の生まれで、空海の甥にあたると云う。
 早稲田という地名の起こりだが、「神田川沿いの低地に水稲の田圃が開け、早場米が栽培されたことに由来する。」と云うのが一般的な解釈である。しかし、周辺の地形を見ると、神田川の北側は、すぐに関口台地、目白台地の高台だし、南側は戸山が原の台地や牛込台地になっているので、田圃が広がっている風景は想像できない。『新編武蔵風土記稿』には、次のように書かれている。
 「早稲田村は元牛込村の地にて、小名早稲田と唱へしを何の頃よりか別村となれり、正保元禄の改にも載せず、…中略…、東は中里村西は下戸塚牛込の二村、南は早稲田町(註:早稲田村の一部だった地域で、町屋が開けて町方の支配となり、早稲田村から切り離された)、榎町北は関口村なり、東西三町南北五町、民家二十軒、村内多く蓑荷(註:じょうか、と読み、茗荷の漢名)を植えて江戸に鬻ぐ(註:ひさぐ・売るの意)、之を早稲田蓑荷と稱せり…略…」
 早稲田は民家20軒で、茗荷の産地であったようだが、何処にも水稲の記述が出てこない。ただ、小名の鶴巻の項に、「田圃の中に鶴を放ち飼せられしことあり、」と書かれて、ここに田圃が出てくる。早場米が栽培されたので、早稲田の地名が起こったという解釈が正しいのかどうか、いま一つ納得がいかない。
 観音寺を後にして、都電荒川線の早稲田電停で一休みして、神田川沿いを歩き、面影橋を渡り、高田の街に入っていった。 (2012年6月14日 記)

 


第30番 放生寺←                 →第29番 南蔵院


東京お遍路のtop頁へ

東京お遍路その8端書きへ


烏森同人のtop頁へ