江戸期における江東地方の新田開発  画像
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江戸期、江東地方の新田分布図(2011年12月28日 作図)
 
 ちょっと寄り道します。
 墨田区、江東区は、徳川家康が入府した以降に埋め立てられた人工の地盤である。400年前の江戸初期までは、利根川が東京湾に注ぎ込む河口域に位置して、葦の茂る湿地や浅瀬が広がる海原であった。江戸城の東部に位置することから、江東地方、あるいは江東地区と呼ばれていた。  
 江戸時代以前の利根川は江戸湾に注いでいた。江戸幕府は、舟運水路の開発、水害対策、新田開発等を目的に大規模な土木工事を行い、現在の千葉県銚子に至る流路を開削した。このことは、利根川東還事業として知られているところである。
 家康が入府した当時の江戸城周辺は、東は入江に面し、背後には未開の武蔵野台地が広がっていた。海と山に挟まれて、武家や町民が居住する土地は限られていた。先ずは、居住地を確保することと、食を確保するための交易路の整備が必須であったのだ。江戸城北部の台地を切り崩し、南部に広がる日比谷入江を埋め立てた。
 幕府の体制が充実するにつれて、交易路、土地造りの土木工事は江東地方に向けられて行った。交易路確保のために、隅田川と中川を結び、東西一直線の小名木川を開削した。都市の拡大に伴い、食料供給地や建築資材の貯蔵地、また密集した市街地からの人口分散が急務となり、新たな土地の造成、即ち、新田開発が進められていった。
 ここに、埋め立て様式に少なからず影響を及ぼした事件がある。明暦元年(1655)に、奉行所が出した「町触」で、江戸市中の「ごみ処理令」である。人口増加に伴い発生する塵芥の投棄場所として、隅田川左岸川口の永代浦まで舟で運び、投棄することを義務付けたものである。さらに延宝9年(1681)に、砂村新田が塵芥の投棄場所として追加指定されている。
 江戸期最後の大規模な埋め立て事業は、明和年間(1764〜1771)に行われた平井新田の造成であり、今の、江東区東陽界隈である。
 それにしても、江戸期の都市造りは、その時代背景を思うと想像を絶する規模で展開されたものだ。江東地区一帯は、今や高層ビルが建ち並び、近代的な都市へと変貌しているが、そもそも、その土地基盤は江戸時代に整備されたものだと云える。
 「新編武蔵風土記稿巻之二十五、葛飾郡之六」から、主な新田の記述を拾ってみた。
海邊新田 「往昔は海岸の茅野又は沼地なりしを、慶長元年より開発せりと云、始めは大工町の邊及ひ所々にて纔(わずか)つヽ開きし地なれば、悉く散在せしと、されど共に海濱に邊するを以て、直ちに海邊新田と唱ふ、・・・略・・・ 其後年を追て沼地を埋め、或は寄洲を開きて、若干の新田となり ・・・略・・・  
後に村内過半数武家及び寺院の賜地となり ・・・略・・・ 境界四隣とも詳らかに辨じかたければ、その大概を云に、東は永代新田南は海面、北は小名木川に限り、東西十三町許、南北十五町許 ・・・略・・・」
 海辺新田は、農産物、海産物が豊富に穫れた土地であったようだが、江戸町方の支配下になり、順を追って造成地が拡大され、急激に都市化が進んで行った。そのことは、新編武蔵風土記に記された、「境界四隣とも詳らかに辨じかたければ、」の表現からも読み取れる。
 今の、江東区白河とその周辺の広域にわたる一帯であり、海辺という町名も残っている。

 越中島新田 「深川越中島町の巽にあり、宝暦中海邊の干潟にて葭萱叢生せしを、曽融と云る禅僧開墾を企んことを伊奈半左衛門に願出けれど、染衣の身なれば許されず、よりて越中島町の南平助に其事を謀りしば、平助の願により半左衛門の計にて許を蒙り・・・略・・・此地の廣狭東西八十間、南北四十間餘、東は海邊新田、西は平助請地、野永上納地、南は藤右衛門請地、野永上納地、北は松平伊豆守下屋敷及越中島町なり、開墾以来御料地なり・・・略・・・。 今の、越中島の東南に位置している。

 石小田新田 「元禄の頃まで海中の干潟なりしを、ここも芥を以て築立、六万坪築地と號せしを、寛永七年願人ありて其地の西方三分の一は黄金を奉て買得の地となし、町家を建てて六萬坪町と名付け町奉行の支配に属す、残りし三分の二は享保十三年、石川小柴豊田等いへる町人の願い依て、新田となせし時其氏の字を集合して石小田新田と名付と云・・・略・・・東は砂村新田、南平井新田、西は前に云六萬坪に隣り、北は千田新田なり、東西五町許、南北二町余・・・略・・・」 今の、南砂の一部か。

 千田新田 「昔江戸市中にて取捨る所の芥を以って、海中干潟わ築立十万坪築地と號せし地なりしを、享保年中近江屋庄兵衛井籠屋萬蔵と云者の願いに依て新墾の地となせり、庄兵衛は近江國の出生にて千田氏なりしかは、己が氏を以って村に名付けしと云・・・略・・・東は十間川を隔てて永代新田の飛び地、南は二十間川を越えて石小田新田、西は永代新田、北は八右衛門新田及び海辺新田なり、東西南北ともに五町許・・・略・・・」 今の、北砂一帯である。

 砂村新田 「當村は相模國三浦郡より砂村新四郎と云もの来りて、萬治二年原野及び海岸の寄洲等を切開て新田となせり、故に彼が苗字を以て村名になせしと云・・・略・・・東は八郎右衛門新田及海面に添ひ、南も海面及平井新田に接し、西は石小田新田、永代新田、北は八右衛門新田久左衛門新田、龜高村、大塚新田等なり、東西十五町程南北七町許・・・略・・・」
 延宝9年(1681)に、江戸市中から出る塵芥の捨て場として、永代島新田と砂村新田が指定されている。年貢免除と云う幕府の振興策もあり、生鮮野菜が圧倒的に不足していた江戸への供給地として、発展して行った。
 砂町運河を隔てた対岸は、夢の島公園である。東京都立のスポーツ公園として整備されているが、昭和32年(1957)から昭和42年(1967)までは、東京のゴミの最終処分場であった。江戸時代に始まった塵芥の捨て場の歴史は、300年もの長い間、続いていたのである。
 海浜を埋め立てて新田を開発したことから、広く砂地で覆われていて、そのことが地名の起こりだろうと長年思っていた。無学だった。開発した砂村新四郎の名が地名として残っていたことを、初めて知ることとなった。砂村新田は、今の北砂の一部から南砂一帯である

 八郎右衛門新田 「深川村の名主深川八郎右衛門萬治年中開發せしにより、直ちに彼が名を以て村名となせり、・・・略・・・四隣東は中川を隔てて東小松川村の飛地、南より西に廻りて砂村新田北は大塚新田中田新田等なり、東西五町、南北七町許・・・略・・・」 今の、東砂一帯である。

 八右衛門新田 「寛永の頃足立郡大門宿の百姓源左衛門の子八右衛門と云もの来て開発せし故、村名となれり、・・・略・・・ 西は深川扇橋町、南は海辺、千田、砂村の三新田、北は小名木川を隔て下大島町なり、・・・略・・・。 記述だけで場所を特定するのが困難だが、今の江東区大島界隈だと思われる。定かではない。

 平井新田 「昔海中の干潟寄洲等なり、後年追々築立地となり、其内西北の方は元禄十六年町人久右衛門と云もの、代金を奉り買得せんことを願けるに、彼が望みの如く免許せられ、則久右衛門町三町目及石川町を開き、後年町奉行支配となり、其餘も追々開けし地なり・・・略・・・、東は砂村新田、南は海面に邊し、西は深川木場町、北は石小田新田に隣れり、東西二十町餘、南北五町許・・・略・・・」
 新田として容が整うまでには、潮の干満による浸水や、津波の被害が有り、造成工事は難航し何度も開発が中断されたようだ。今の、江東区木場、東陽の一部である。

 新編武蔵風土記稿には、明暦元年(1655)に出された江戸市中の「ごみ処理令」で指定されたという永代島新田の記述は無い。永代新田の項目はあるが、記述の内容から場所を特定するのが難しい。「ごみ処理令」では、塵芥の投棄場所として、永代島の東側、永代浦と呼ばれた辺りを指定したのではないか。今の富岡八幡宮辺りである。永代島新田の呼称は幾つかの文献に見えるが、新田と表現するほどの規模では無かったのか、または永代浦を新田と表現したものであろうと思う。
 ここで、新編武蔵風土記稿の記述に基づいて、新田の場所を図に描いてみた。ただ、これは本文も含めてだが、趣味の延長線上でまとめたものであり、学術論文ではない。正確性については自信が無い。
 (2011年12月29日 記)
 
 


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