第16番三寶寺(さんぽうじ)

      山号 亀頂山(きちょうざん)
      住所 練馬区石神井台1-15
      参詣 2012年9月21日
          
 

三寶寺の本堂
 
 
 石神井公園駅前の商店街を抜けて住宅街に入り、石神井池の畔にでた。水面は緑の藻に覆われていて水面下は全く見えない。それでも、お互いに適度の間隔をあけて釣り糸を垂らしている人々がいる。どんな魚が棲んでいるんだろう。何人かの魚篭を覗いてみたが、どの釣り人の魚篭にも魚の姿は無い。
 三寶寺の山門の前には、宗教上特別の地域を示すという結界石があり、「守護使不入」と云う文字が刻まれている。守護とは、鎌倉幕府、室町幕府が置いた武家の職制であるが、領主と読み替えればわかりやすい。三寶寺は徴税権や警察権の及ばない特権が付与された寺格の高い寺院であったわけだ。
 新編武蔵風土記稿から、縁起を抜粋する。「新義真言宗亀頂山密乗院と号す、無本寺なり、古は鎌倉大楽寺の末なりしと云、本尊不動傍に聖徳太子の作の正観音を安す、又将軍地蔵を置り、・・・略・・・、寺伝を閲するに、當寺は応永元年(1394)権大僧都幸尊下石神井村に草創する所にして、・・・略・・・、文明9年(1477)太田道灌豊島氏を滅ぼせし後、その城跡へ當寺を移せりと云、・・・略・・・、天正19年(1591)寺領十石の御朱印を賜れり、寛永2年(1625)正保元年(1644)大猷院殿(註:三代将軍家光)御放鷹の序に當寺へ御立寄あり、・・・略…」とある。 幸尊法印が布教の旅に出て、清らかな水が湧き出でる三寶池の畔に草庵を編んだのが、三寶寺の始まりと云うことだ。戦乱の世を経て、太田道灌により勅願所の免状が与えられ、江戸期には三代将軍家光の休息所ともなっている。古刹である。
 石神井という地名からは、古い歴史を感じさせてくれる。新編武蔵風土記稿には、「往古村内三寶池より石剣出しかは、里人一社を営みそれを神體として石神井社と崇め祀れるより、神号をもって村名とせしと云う」と記されている。石剣、つまり石の神を祀る石神井神社は石神井公園駅の北側数百メートルのところにある。
 石剣とは、縄文時代後期の遺跡から発掘される石器で、その形状が武具の剣に類似しているので、この名前が付けられている。「江戸名所図会」の熊野権現祠のところに、「神体は一個の霊石にして、長二尺八寸ばかり囲み本にて二尺ばかり、末にて六寸あまり、その形から傘をつぼめたるがごとし。武州練馬の石神井村石神井社の神體の霊石、何れもその形相似たり。」とある。石神井神社の由緒書には、ご神體の石剣は本殿の奥深くに奉祀されています、とあるが、それを見たと云う人はいない。
 三寶寺は、石神井社の別当寺でもあった様だ。帰り際に門前の団子屋さんに立ち寄った。
  (2012年9月24日 記)
                
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