第11番荘厳寺(しょうごんじ)
        幡ヶ谷不動

      山号 光明山(こうみょうさん)
      住所 渋谷区本町2-44-3
      参詣 2012年7月2日



荘厳寺本堂

 
 さらに、山手通りを南に向かって歩くこと20分余り。日差しが強くなり、のどが渇く。道筋、至る所に自動販売機があるので助かる。これぞ、現代版の「茶店」である。
 山門は石柱二本が建っている。右側の柱には「威徳退百邪」、左側の柱には「神力護萬世」と彫られている。「威徳」とは、広辞苑によると、「人を畏服させる威厳と人を心服させる徳と。」と、説明されている。諸々の邪悪を退治して、人々から畏服され心服される不動様だということか。そして、「神力護萬世」は、永久不変に人々を護ります、とでも解釈するのだろうか。
 荘厳寺は永禄4年(1561)、宥悦法印によって開創されたと伝わっているが、度重なる火災で記録が失われ詳しい来歴は分らないそうだ。延享4年(1747)、荘厳寺の境内に不動明王が祀られるようになり、何時の頃からか、幡ヶ谷不動と呼ばれるようになったらしい。ご本尊は薬師如来で、薬師様がご主人だが、間借り人の不動明王が有名になってしまう。軒下を貸して母屋を取られたという塩梅だ。
 江戸名所図会には、幡ヶ谷不動明王について「真言宗光明山荘厳寺に安置す。本尊不動明王の像は智証大師の作なり。往古智証大師江州三井寺を創建の時、彫刻の霊像なりといへり。天慶年間平将門東国に在りて逆威を震ひ帝を悩まし奉る。故に平貞盛及び藤原秀郷等追討の宣旨を蒙り、東国に発向す。その時三井寺よりこの本尊を捧持して、陣中に移し奉り、戦の勝利を祈誓せしが、同三年庚子果して将門を討ち亡くしたりしにより、後この霊像を下野国小山郷へ遷しまいらす。…以下略…」と、書かれている。さらに、武田信玄が甲州に遷し、北条氏政が奪い、武州の三光院に伝えられ、延享4年(1747)に幡ヶ谷村の荘厳寺境内に堂宇を構えて安置された、と記されている。本尊不動明王像は、様々な策略や争いに翻弄され、やっと幡ヶ谷の荘厳寺に安住の地を得ることが出来た、ということだ。
 明王は、如来、菩薩に次ぐ仏格をもつ仏様だ。不謹慎だが、私流の基準では会社の課長に当る。(ちょっと寄り道、「仏様の位」をご覧ください)。上司である如来や菩薩、つまり、役員や部長の指示を受けて、憤怒の形相で、教えに従わない人間、即ち部下どもを、調伏し、救済する役割を持っているのだ。上司と部下の間に立って、悩みながら己の役割に取組む中間管理職そのものではないか。上司としての威厳を示し、いかに仕事を教え、実行させるのか。不動明王像に接すると、そんな己の昔を思い起こす。私には、あの憤怒の形相のなかに、何処か悲しみが漂い、慈悲の表情が感じられるのだ。  (2012年7月31日 記)


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