第2番東福寺(とうふくじ)

      山号 金峰山(きんぽうざん)
      住所 中野区江古田3-9-15
      参詣 2012年7月2日
 

東福寺本堂
   
 東福寺は中野区江古田にある。江戸御府内八十八箇所霊場の第2番目の札所だ。第1番の高野山東京別院は港区高輪にあり、東福寺との距離は随分離れている。もともと開創期の第2番札所は新宿区余丁町にある抜弁天の別当寺、二尊院であった。それにしても第1番札所との距離は離れすぎている。
 江戸初期に進められた居住区の拡張工事で、日本橋界隈から浅草寺周辺、谷中界隈に移転した寺院が多い。また関東大震災、東京大空襲、戦後の大規模開発等を経て、その場所を変えた札所もある。これらの要因で順路が乱れたのかと考えたが、そうでも無さそうだ。第1番札所は、延宝元年(1673)に高野寺として現在地に創建され、今に至っている。元から第2番札所二尊院との距離は離れていた。
 江戸御府内八十八箇所霊場は、下総国松戸宿諦信と信州浅間山真楽寺上人の両者によって開創されたと見るのが正しいと思うが、それにしては何故順路をバラバラに決めたんだろう。何か順番を定める基準があったのだろうか。十返舎一九の『東都大師八十八箇所』にも、「一、二の順番に拘らず、その道順よきを記す、故に順逆交雑す。」と書かれている。阿波を起点として、讃岐に至る四国札所は、遍路道にそって、1番から88番まで、ほぼ順序良く並んでいる。そんな、四国を歩いてきたので、尚更、江戸札所の順序が入り乱れているのが気になる。ただ、四国のお遍路道も、自動車道が整備され、人も歩かぬ廃れた遍路道があり、順序よく並んでいた札所にも、昨今では変化がみられる。
 先にも書いたように、元の札所は、新宿区余丁町にある抜弁天、正確には厳島神社の別当寺であった二尊院だ。明治の神仏分離で廃寺となったために、札所は東福寺に移されたとのこと。弘安3年(1280)の創建で、本尊の不動明王は弘法大師の手になるものだという。山門を入った左側には「徳川将軍御膳跡」の大きな石碑がある。三代将軍家光が、中野に鷹狩にやってきた折り、休息したと伝わっている。また、八代将軍吉宗も江古田で鷹狩をして、東福寺で休息したという記録もあるそうだ。
 本堂前で般若心経を唱え、石段の脇にある立派な大師堂の前でも般若心経を唱えた。う〜ん、般若心経を唱える智慧しかないのか。これだけ、巡礼、遍路を重ねて来たのに、私の日常の中に、深い信仰心が根付いて来たとは云えない。般若心経は「観自在菩薩、行深般若波羅密多時・・・」の文言で始まる。冒頭句は観世音菩薩であって、釈迦如来ではないのだ。般若心経は、ブッダ(釈迦)の教えが説かれているのではないのか。この辺が良く分からない。何だかややこしくなってきた。  (2012年8月18日 記)


               
 
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