第18番愛染院(あいぜんいん)

     山号 独鈷山(とっこさん)
     住所 新宿区若葉2-8-3
     参詣 2011年9月20日
 
門塀の脇に置かれた石仏
 
 

 東福院の斜向かいに愛染院はある。さほど広い境内ではないが、ごく普通のお寺のたたずまいである。これまでに、マンション寺院や城郭のようなビルディング寺院、高級住宅と紛うようなお寺を見てきたから、愛染院の境内に入るとホッとする。これぞお寺だっ、という感じだ。境内は綺麗に手入れされていて、踏み石を外して歩くのは気がとがめる。
 縁起によると、創建は天正年間(157392)で、先の東福院と同じで、寛永11年(1634)麹町から四谷の現在地に移ってきた。
 愛染院には、江戸甲州街道の最初の宿場、内藤新宿を開発した高松喜六の墓がある。喜六は浅草の名主であったが、当時の甲州街道の最初の宿場が、日本橋を出立して四里も先の高井戸であったことから、元禄10年(1679)仲間とともに幕府に願い出て、高松藩内藤家の下屋敷の一部に宿場を開設する許可を得た。
 高松喜六は宿場開設上納金として5,600両を幕府に納めたというが、引き換えに、宿場に本陣を構え、問屋を経営する権利を得ることになる。本陣は、身分の高い人が泊まる宿場の中心施設であり、問屋は、本陣・脇本陣と並ぶ宿場の中核的な施設で、馬の手配や次の宿場までの荷物を受け継ぎ、言わば今日の運送会社のようなものである。5,600両の見返りたるや、膨大な経済的恩恵を受けたであろう。
 さらに甲州街道の首根っこ押さえているのだから、人の行き来や物流に関わる経済効果から、計り知れない富と権力を手に入れたのであろう。想像に難くない。
 その頃の5,600両がどれほどの価値を持っていたのか、高松喜六がどれほどの財を築いたのか興味のあるところだが、野暮な詮索は止めておく。現在の新宿の発展は、高松喜六が幕府に5,600両を納めたところからスタートしているのだから、高松喜六の商魂に感謝しなければならぬ。
 夕暮れ時の境内は静かだ。人影は無い。遠慮なく般若心経を唱えた。雨を凌いでいた本堂の軒下から、本降りの境内に出る。堅牢に出来た鉄の門壁の脇に、微笑を浮かべたお地蔵さんが置かれていた。穢れを知らぬ幼子の顔だ。真新しい石仏で、歴史は感じられないが、何となく気になったので写真に収めてきた。 (2011年10月21日 記)

 


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