第69番宝生院(ほうしょういん)

     山号 龍臥山(りゅうがさん)
     住所 港区三田4-1-29
     参詣 2011年6月15日
 
陣幕久五郎之碑
 
 
 

 65番大聖院と69番宝生院、80番長延寺は桜田通り沿いに並んでいる。この界隈には多くの寺院があり、一歩路地に入ると蛇坂や潮見坂、地蔵通りなどの地名に触れることが出来て、江戸の三田寺町の名残が伝わってくる。
 通りに面して左右に築地塀が延び、広い間口の向うに白壁で土蔵造りの宝生院があった。土蔵造りの寺院はさほど珍しくもないが、その佇まいから、お蕎麦屋さんをイメージしてしまった。玄関脇に「宝生院」と大きく書かれた扁額が掲げられているが、料亭の看板を想像させる。誠にもって不謹慎の段、お許し願いたい。
 縁起によると、江戸の初め慶長16年(1611)、八丁堀に創建され、その後、周囲の寺院と同じように、三田寺町の現在地に移されている。明治8年(1875)には、境内に青山学院の前身になる寺子屋式の学校が開かれたという。明治12年(1879)に京都の真言宗智山派総本山智積院の末寺になり、今に至るそうだ。
 境内に銀杏の大木があって、その右手、隣家との壁際に三つの石碑が並んでいる。大きな二基は同じ造りで、その一基には「寛政九奉東方大関陣幕為之助碑」とあり、もう一基には「日下開山横綱力士陣幕久五郎碑」と彫られている。陣幕久五郎が大関に昇進し、さらに横綱に昇進した事を祈念して建てられたものであろう。
 陣幕久五郎は島根県出雲の出身で、文政121829)年、貧しい農家に生まれている。江戸時代から明治中期にかけての力士で、39歳で第12代横綱の免状を手にした。江戸時代に横綱免許を受けた最後の力士である。そのあだ名が「負けず屋」といわれ、残っている記録から計算したら勝率が94.6%だったという。陣幕の名は、平成3年に引退した横綱千代の富士が、陣幕親方を名乗ったことで一般に知られるようになった。 
 築地塀と、その奥の白壁の庫裏を写真に納めたいと思い、シャッターチャンスを待っていたのだが、門前でビジネスマン風の外人さんが二人立ち話をしていて、一向に立ち去る気配が無い。諦めて隣接する長延寺にむかった。 (2011年7月11日 記)

 


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