東京お遍路 その8 小日向から、音羽、牛込、早稲田、高田界隈まで

歩いた日は、2012年5月5日。
お参りした寺院は、第79番専教院、第87番護国寺、第22番南蔵院、第31番多聞院、第30番放生院、第52番観音寺、第29南蔵院、第35番根生院、第38番金乗院、第54番新長谷寺の10寺院。

 春日通りを茗荷谷に向って歩く。富坂を上り終えると、右側に富坂警察がある。ビジネスマンであったころ、社内で起きた業務上横領事件の調査を担当し、その証人として富坂警察の取調室で調書を取られた経験がある。あの、映画やテレビで見る狭い個室だ。警察官は被疑者を逮捕してから48時間以内に取調べを行い、調書と一緒に被疑者の身柄を検察官に送らなければならない。このときの調書を、被疑者との縁が切れる書類だから、江戸時代の離縁状になぞらえて、「三行半」と云うそうだ。私を担当した刑事が、そう教えてくれた。
 茗荷谷駅の少し手前を左に折れ、小日向の住宅街に入って行った。曲がりくねった細い路地に迷い込んで、方向を見失ってしまった。小日向は音羽谷と茗荷谷に挟まれた台地で、閑静な高級住宅街のイメージを持っていたのだが、そこは無秩序に拡大していった住宅街だった。古い住宅が密集し、細い路地が通じている。かつては石川啄木や安部公房などが住んだ町であり、夏目漱石や志賀直哉、森鴎外の作品にも登場する場所である。文化の匂いを嗅ぐ積りで来たのだが、期待が外れた。それでも、周辺には、拓殖大学やお茶の水女子大、跡見学園、筑波大付属中学・高校などがあり、一大文教地区になっている。
 音羽通りから江戸川橋通り、新潮社や旺文社のある牛込中央通りを歩く。この道筋には、江戸時代の町名がそのままに残っている。昭和40年代に、「住居表示に関する法律」に基づいて、町名を分りやすくしたり、郵便物が配達しやすいように、次々と合理的な住居表示に変えていった。にも関わらず、この界隈には江戸時代の町名がそのまま残っている。新宿区の地図を広げてみると、市谷、牛込、四谷地域は、この住居表示変更が実施されていないようである。住民の同意が得られなかったと云うことなのだろうか。
 『江戸切絵図』には小日向臺町があり、音羽町がある。関口から中里町、天神町も読める。矢来町は、酒井若狭守が竹矢来を廻らせていた矢来屋敷があったことから名付けられたと云うが、屋敷下の坂道に矢来下と書いてある。細工町は御細工町、箪笥町は御箪笥町と書かれている。江戸時代、幕府の武器を総称して「箪笥」と呼んだことから、調達する武士や細工をする職人達の住んだ町で、町の名前に尊称の「御」を附けて呼んだようだ。
 二十歳代の八年間、早稲田大学文学部に接する喜久井町の粗末なアパートで暮らしていた。懐かしい道順を辿ってみたいと思い、すこし回り道になるのだが、途中から、もう一度大久保通りに出て、夏目漱石に所縁があるという夏目坂通りを下った。喜久井町の八年間には、青春時代のほろ苦くて懐かしい思い出が詰まっている。
 私が編集して、手作りの冊子で発行していた同人誌、『烏森同人』の仲間に、崎靖士氏がいた。秀才の誉れが高かった彼は、早稲田文学に憧れて早稲田大学進学を目指したが、私立大学は授業料が高いからという理由で、東京大学に進学したという変り種である。彼の作品は、昭和30年代の後半から40年代初頭に掛けた早稲田や、神田川周辺のあり様を髣髴させてくれる。私が、喜久井町で暮らしていた頃に散策した佇まいが描写されていて、懐かしさを覚えた作品である。彼は、不幸にして他界してしまった。忘れえぬ人の一人である。
 穴八幡神社にお参りし、早稲田大学の正門から大隈通りを抜けて、都電荒川線の始発駅、早稲田電停で一休みをした。暫らくの間、都電の行き交う様を眺めていた。神田川に架かる面影橋を渡り高田の街に入っていった。 高田の町も、狭い通りが入り組んでいて、突然入り込んで行った私には、分り難い町だった。