第47番城官寺(じょうかんじ)

      山号 平塚山(ひらつかさん)
      住所 北区上中里1-42-8
      参詣 2012年4月9日
 
田中角栄揮毫の扁額がある山門

 
 旧古川庭園を通り過ぎた辺り、道路の反対側に平塚神社がある。神社の塀に沿って右手の坂道を下っていくと、右に入る小路があって、突き当りに城官寺があった。山門の扁額は田中角栄元首相の筆になるものだそうだが、何故ここに田中角栄の揮毫があるのか、繋がりは解らない。
 平塚神社前の歩道脇に「平塚城伝承地・平塚神社」と書かれ、北区教育委員会が建てた説明板がある。その後半部分に次のような記述があった。
 「江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫らくして知った家光は感激し、二百五十石の知行地を与え、この内五〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。」とあり、城官寺が平塚大明神(平塚神社)を管理する別当寺であったことが分る。また、古くは浄土宗のお寺で、安楽寺と称していたが、城官寺と改めた経緯も想像がつく。新編武蔵風土記稿にも、この件が、詳細に記されている。ついでに、当道座(とうどうざ)とは、中世から近世にかけて存在した男性盲人の自治的互助組織で、最高の官位が検校とされていた。
 山門の前に「都旧跡 多紀桂山一族墓」と刻まれた石柱が建っている。裏面には、昭和11年3月4日指定、昭和50年3月31日建、東京都教育委員会、と刻まれていた。東京都の文化財として指定されたのが昭和11年であったという歴史を強調している様だ。
 多紀桂山一族は、桂山の父藍渓は漢方医として、安永年間(1772〜81)に将軍家の侍医を務め、僧位の最高位である法印にまで進んだ。藍渓は、製薬所を設置して医官の師弟の教育に努めた。その子、桂山も父の後を継ぎ、幕府の医官となり、法眼にまで叙されたが、なぜか、享和年間(1801〜3)に侍医を罷免されている。晩年は著作に専念して、多くの医学書を残している。その子、多紀元堅も幕府の医官を務め、身分の上下に関わらず診療し、貧困の者にはお金まで与えることがあったという逸話が残っている
 私より先に読経されていた熟年の参詣者が去って行った。離れた場所で終わるのを待ってから、般若心経を唱えた。東京お遍路、同じような方が居るもんだなぁ、と思う。  (2012年4月24日 記)

 


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