第27番正光院(しょうこういん)

      山号 瑠璃山(るりざん)
      住所 港区元麻布3-2-20
      参詣 2011年9月20日
 
門柱と鰻屋の看板
 
 正光院には一向に辿り着かない。町名を読み誤り、元麻布にある正光院を南麻布で探していた。
 広い敷地で、中国大使館があった。塀には中国を代表する都市を描いた壁画が続いている。なんだか仰々しくて、富裕層が居住する住宅街の佇まいにはそぐわないように思う。中国大使館を過ぎて麻布消防署の先に正光院は在った。所番地を確認してさえいれば、すこぶる分りやすい場所である。 
 第5番延命院の文章の中で、落語「黄金餅」のことを書いた。弔いを出すお寺は「麻布絶口釜無村の木蓮寺」とある。これは私の想像だが、釜無村とは、炊くもの(穀物)が無いから、釜は必要無い。そんな極貧の村のことを言っているのだろうと考えた。絶口の地名も、何となく貧しさを表しているように思えてきた。 
 日本では、古代から自生した植物の繊維を縒りだして、衣服に加工してきた歴史がある。繊維質の植物を総称して「アサ」と呼んでいたようで、麻布には自生した麻や綿が茫々と生い茂っていたのかも知れない。古い時代の麻布には、自生した植物から繊維を縒りだす農家が点在した、貧しい村だったのだろうと想像した。
 しかし、違ったようだ。麻布周辺は縄文時代から人間が住んでいて、貝塚跡も発見されていた。さらに、弥生時代には農業が行われていた痕跡が残っているという。江戸初期までは、農村や寺社の門前町が点在していたようだが、その後武家屋敷が建ち並ぶようになり、現在の東京を代表する住宅地としての礎になった。麻布は、芸能人、財界人など、各界の著名人が多く住み、東京を代表する住宅地である。
 麻布の地名の起こりは、台地の縁にある崖地の意味だそうだ。そういえば麻布は武蔵野台地の目黒台東端に位置している。古川の流れる麻布十番から、元麻布に向って急坂な道が続く。
 正光院は筑前福岡藩黒田家の祈願寺として創建された。三代藩主黒田忠之の時代、俗にいう黒田騒動が起こり、忠之は藩の安泰を祈願して「子安薬師」を正光院の本尊として寄進したのが開基であるという。
 交通量の激しい表通りに面しているのに、一歩入ると境内は静かだった。誰も居ない。遠慮することも恥ずかしがることも無い。声高に般若心経を唱え、正光院を後にした。振り返って本堂を写真に収めようとしたら、正光院と彫られた門柱に、「うなぎ・松宮川」の看板がくっついているのが眼に留まった。 
 なんだか変だ、違和感がある。仏教から成立して、殺生を禁じた精進料理のことを思った。でも、うなぎの蒲焼を僧侶が食べる時代だ。何の不思議も無かろう。こんなことに拘っていたら、世の中先に進めない。
(2011年10月2日 記)
 


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