第22番南蔵院(なんぞういん) 山号 天谷山(てんごくさん) 住所 新宿区箪笥町42 参詣 2012年5月5日 |
本堂の庇は唐破風
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南蔵院は大久保通りに面して建っている。本堂の庇は、中央が弓形で両端が反り返った曲線状になっている。この様式を「唐破風」と呼ぶそうだ。この型式は、お寺と云うより神社で多く見かけたような気がする。
縁起によると、開基は正胤法印で、元和元年(1615)に早稲田に福生院として創建、延宝九年(1681)現在地に移転し南蔵院と改称したと云う。正胤法印は天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻めで、小田原北条氏と共に戦い滅んだ下総千葉氏の一族とあるが、調べてみたけど、その系譜はよく分らない。 歩いてきた道筋には、音羽から関口、山吹町、中里町、天神町、矢来町、細工町、箪笥町など、江戸時代の町名がそのままに残っている。南蔵院のある箪笥町は、江戸時代には、幕府の武器を調達する具足奉行や、弓矢鑓奉行配下の組同心達の拝領屋敷があった処である。幕府の武器を総称して「箪笥」と呼んだことから、正徳3年(1713)に町奉行の支配下になった際、牛込箪笥町と呼ぶようになったと云う。 「牛込」は、豊島区の「駒込」や大田区の「馬込」と同様に、古代から牧畜が行われていて、地名として今日まで残ったという説がある。但し、定かではないらしい。『新編武蔵風土記稿』に、「牛込村は古廣き地にて、今牛込の町々及早稲田中里戸塚の邊都て當村の地域なりしが、御打入の後年を追て武家及寺社の拝領地又は町屋となりしゆへ、今全く村と唱ふ所は、早稲田下戸塚の間に纔(註:わずか)に残れれ・・・略・・・、當国は往古広曠野の地にして、駒込馬込など云も皆牧ありし所とみゆ、込は和宇にて多く集まる意なり、牛の多く居りし所なれば名づけしとあれど其據を知らす・・・略・・・」と書かれている。「込」は、つめこむ、場所一ぱいになる、と云う意味(字統・白川静)だから、牛が多く放牧されていて、そのことから「牛込」の地名が起こったという解釈は、正しいと思う。 周辺には、歴史と地誌を伝える地名が、そのまま残っている。今の地図と、『江戸切絵図』と合わせてみてれば、その場所は見事に合致する。描かれた寺社や武家屋敷に挟まった庶民の居場所が浮んでくるし、生活の息吹きや匂いまでもが感じられるようだ。地理屋にとっては、たまらなく魅力を感じる場所である。 誰もいない。声を出して般若心経を唱えた。境内は散策するほどの広さはない。 (2012年5月19日 記) |
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