第42番観音寺(かんのんじ) 山号 蓮葉山(れんようざん) 住所 台東区谷中5-8-28 参詣 2012年2月27日 |
閉ざされた山門
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少し後戻りをすることになったが、観智院の先の信号を左折して細い通りに入って行った。落着いた寺町の佇まいが続く。寺町巡りをしている二人連れの熟年婦人に出会った。ガイドブックを見ながら、お寺を探しているようだが、観音寺ではなさそうだ。私と同じお遍路さんではないな。
観音寺の山門は固く閉ざされていた。脇門に手を掛けてみたが開かない。ご本尊は何故か、大日如来と阿弥陀如来の二仏、お参りすることは諦めた。 門前の左側に「赤穂浪士ゆかりの寺」と書かれた、台東区教育委員会が建てた説明板があったので、メモすることにした。そこには、「・・・四十七士に名をつらねる近松勘六行重と奥田貞右衛門行高は、当寺で修行していた文良の兄と弟であった。文良とは、のち当寺第六世となった朝山大和尚のことである。寺伝によれば、文良は浪士らにでき得る限りの便宜をはかり、寺内でしばしば彼らの会合が開かれたという。明治末の福本日南の著作『元禄快挙録』には、勘六は死にのぞみ「今日の仕儀勘六喜んで身罷ったと、長福寺の文良へお伝えくだされたい」と、遺言したというエピソードが記されている。当寺はもと長福寺と称し、享保元年(1716)観音寺と改称した。・・・以、略・・・。」と、記されている。本堂の右側には、赤穂浪士の慰霊塔がある、・・・そうだが、山門が固く閉ざされていて、境内に入ることが出来ないので、お参りはしていない。 縁起によれば、慶長16年(1611)、尊雄上人により神田北寺町に、長福寺として創建され、慶安元年(1648)に周辺の寺院とともに谷中清水坂へ移転し、さらり延宝8年(1680)に現在地へ移ってきた。次にお参りする予定の加納院も同じような経過を辿っている。 大師堂の前に標石があって、そこには「公訴発願 信州浅間真楽寺上人 巡行願主 下総国諦信」の文字が刻まれているそうだ。第1番高野山東京別院の本堂脇に、「四国八十八ヶ所第一番」「宝暦六年」「下総国諦信」と、かろうじて読める石碑があった。「下総国諦信」とは、江戸に四国八十八個所をうつした人物である。御府内八十八箇所が開創された歴史をたどる貴重な史料なのだ。 とにかく、境内に入れないのだから、どうしようも無い。折角の貴重な史料にお目にかかることが出来ない。残念だ。また、必ずお参りに来る。・・・摩訶般若波羅蜜多心經・・・、頭の中で唱える。 {(2012年4月7日 記) |
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