第44番顕性寺(けんしょうじ) 

      山号 金剛山(こんごうさん)
      住所 新宿区須賀町13-5
      参詣 2011年9月20日
 
二階が本堂になっている
 

 左に見た青山墓地を過ぎ、青山一丁目の交差点を渡ると、右側が赤坂御用地である。濃い緑の外苑東通りを歩き続ける。信濃町駅を過ぎ、左門町の交差点を右に折れた。ああっ、この通りには見覚えがある。
 乳癌で入院していた妻を、信濃町の慶應病院で看取った。深夜に息を引き取った。暗い病院の廊下で呆然と立ち竦んでいる私に声をかけてきた人物がいた。葬儀社のスタッフである。息を引き取る前に死者が出るという情報を得て、病室の前で私が現れるのを待っていたのだ。人の死をビジネスとして扱う病院のスタッフと葬儀社との繋がりや、ことを起こす、その素早さに唖然としたものだ。
 さりとて、檀家寺を持たない私には、葬儀の手順を相談するあては無い。死者の遺体を整え、旅立ちの準備、さらに葬儀、告別式に関わるまでの段取りは、葬儀社に頼まざるを得ない。
 葬儀社の手順に乗っかって選んだ葬儀、告別式の会場が慶應病院に程近い、左門町の「たちばな会館」である。いま、その前に立っている。突然、18年前の記憶が蘇り、物思いに耽っている。
 
ちばな会館を通り過ぎた先の右側に、顕性寺がある。入り口の顕性寺と彫られた標石を見落として、行ったり来たりを繰り返した。参道とは云えない通路の奥に本堂がある。境内と表現するほどの広さは無い。顕性寺は二階建てである。一階が庫裏になっていて、本堂は二階にある。右側に造られた外階段を上ってお参りする。参拝者は誰も居ないので、ここでも、遠慮なく声を出して般若心経を唱える
 縁起によれば、慶長16年(1611)、牛込御門外に創建され、寛永13年(1636)四谷南町の現在地に移転した、と書いてある。弘法大師が自ら、長さ一メートルあまりの俎板に彫った、阿弥陀如来像が寺宝として伝えられていて、「俎板大師」とも呼ばれているという。弘法大師は、全国津々浦々、至る所に手彫りの仏像を残している。誰も信じてはいないが、伝承として、有り難く頂戴することにしている。
 狭い敷地の中に本堂が立っている。カメラを構えても、全体像を収めることが出来ない。

(2011年10月6日 記)
 


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