住宅街に迷い込み、またまた捜しあぐねることになる。直前まで頭脳にインプットしていた36番地という記号が、いつの間にか38番地に変わっていた。この辺りの散漫な記憶力は齢のせいなのか。気になる。無秩序に路地が伸びて行った住宅街だから、方向感覚がめちゃくちゃになってしまう。間違いに気が付くまでに十数分間も無駄な歩きをしてしまった。一旦バス通りにまで戻り番地を確認したら、何のことはない。青蓮寺はこのバス通りから30mも離れていない坂道の途中にあった。
寺伝によると、札所としての歴史が転々としている。開創期の第19番札所は、港区愛宕下の圓福寺で、新義真言宗の触頭「江戸四ヶ寺」の格式を持つ寺院であった。因みに「触頭・江戸四ヶ寺」と云うのは、寺社奉行からのお触れの伝達や、寺院からの訴訟の取り次にあたった寺院のことである。第35番根生院のところでも書いたが、この根生院と、あとの二ヶ寺は、愛宕下の第67番真福寺、本所の第46番弥勒寺である。
圓福寺は、明治の神仏分離政策により廃寺を余儀なくされ、札所は浅草の新寺町にあった清光院に移された。この清光院も、関東大震災で壊滅し廃寺となり、そのあと札所は徳丸ヶ原(今の高島平)にあった青蓮寺に移った。さらに、洪水の被害にあって徳丸ヶ原から今の成増に移転してきたとのことだ。
横道にそれるが、江戸期の徳丸ヶ原は荒川の後背地として湿地帯が広がり、幕府の天領地として主に鷹狩場であった。江戸時代の末期になり砲術訓練所の場所として利用され、砲術家、高島秋帆の名に因み、昭和44年(1969年)、この一帯が住宅地として開発され、高島平と改称されたのは周知の通りである
青蓮寺の開創についてはよく分からないが、昭和34年(1959)、旧本堂を解体した際に棟木に元禄6年(1693)の銘が見つかったことから、元禄年間(1688〜1704)に創建されたのだろうと推測されている。
本堂の回廊を雑巾掛けされている女性がいた。私が般若心経を唱え始めると場所を移動されたが雑巾バケツは置かれたままだった。雑巾バケツを目の前にして般若心経を唱えている様は、何となく可笑しい。
境内にブロック塀と鉄柵で隔離された一角があり、祠があり石造りの鳥居があった。どのような理由で神社が祀られているのか、説明らしきものが見当たらず、疑問を残したまま青連寺を後にした。 (2012年9月18日 記)
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