第35番根生院(こんしょういん)

      山号 金剛宝山(こんごうほうざん)
      住所 豊島区高田1-34-6
      参詣 2012年5月5日
 
朱塗りで瓦葺の山門
 
  住宅街に迷い込んでしまった。裏道が複雑に入り組んでいるので、方角が分からない。しばらく同じ道を行ったり来たりして、やっと根生院の門前に出た。朱塗りで瓦葺の山門は、由緒を忍ばせる佇まいであるが、本堂は高床式鉄筋コンクリート造りの近代的な建物である。この年代差には違和感を覚える。
 寺伝によると、現在の本堂は平成14(2002)に改築されたものである。風情のある山門は、いつの頃から建っているのだろうか。境内に掲示されている根生院の縁起によると、明治36(1903)、上野池端七間町から、この地へ移転してきたとある。このとき、山門が移築されたものかどうかは不明だが、少なくとも100年以上の風雨には耐えて来たものだろうと思われる。
 縁起をみると、寛永13(1636)春日局が開基となり、徳川幕府西の丸祈願所として、神田白壁町に建立されたとある。天保2(1645)下谷長者町へ移転し、さらに元禄元年(1688)、本郷切通坂知足院の跡地へ移転している。
 境内の掲示には、「貞享4(1687)新義真言宗の触頭江戸四ヶ寺となる。」と書かれている。この触頭というのは、各宗派から選定されて、寺社奉行からのお触れの伝達や、寺院からの訴訟の取り次にあたった寺院のことである。新義真言宗の触頭は、根生院の他に愛宕下の第67番真福寺、本所の第46番弥勒寺と愛宕下に在ったとされる本来の第19番円福寺である。円福寺は曲折を経た後、大正13(1924)に成増に在る第19番青蓮寺に、その歴史が移されたという。つまり、根生院は将軍家の祈願所として栄え、新義真言宗の触頭を務めた格式のある寺院なのだ。
 それにしては、寺所が一か所に定まらず、あっちこっち移転している。境内掲示の縁起では、さらに明治36(1903)上野池端七間町から、田安徳川侯爵の旧邸であった現在地に移転した、と書いてある。将軍家の祈願所として隆盛を誇り、寺領の加増と伴に移転し、明治維新には神仏分離令により廃寺の憂き目に会い、移転を繰り返して、今日までの長い間にわたり、寺院興亡の歴史を繫でいる。
 根生寺は、代々幕府の祈願所を勤め、檀家という形で一般大衆との触れ合いの無い寺院である。寺院を維持していくには多額の収益を確保しなければならない。明治以降は、どうなっているんだろう。まっ、余計な詮索はやめておこう。そんなことより、もう少しお遍路の苦行を積まねばならぬ。 (2012年6月26日 記)
 


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