東京お遍路 その10  城北界隈から郊外へ、そして結願

 

城北界隈。 歩いた日は、2012年9月2日
お参りした寺院は、第19番青蓮寺、第17番長命寺の2寺院

 前回歩き終えた西武新宿線の鷺宮駅で下車して、北に向かって真っすぐに伸びる中杉通りを歩く。9月に入って、幾らか日差しが柔らかくなった様な気もするが、残暑は厳しい。老人には危険かもしれないが、蠢く「歩きたい虫」に抗しきれず出かけてきた。自動販売機で求めたペットボトルで後頭部を冷やしながら歩く。熱中症には要注意だ。水分の補給も間断なく続けている。
 中杉通りは西武池袋線の中村橋駅を過ぎると、目白通りに突き当って終わりになる。目白通りを横断して左折し、環状八号線に向かって歩く。貫井5丁目に差し掛かり、民家の塀に囲まれるように立っている石碑を見つけた。「左 東高野山道」と彫られた道標である。練馬区教育委員会が掲示した「貫井の東高野山道道標」と書かれたプレートには、次のような説明があった。
 「旧清戸道(所沢秩父道)から東高野山長命寺(高野台三丁目)方面へと向かう旧道の分岐点に建立された道標二基です。向かって左側は寛政11年(1799)3月に再建された道標で、正面に「左 東高野山道」と刻まれています。右側は、同年4月に貫井村の関口藤助延義が発願人となり「都鄙講中(とひこうちゅう)」により建立された道標です。正面の上部には「東高野山」、下部には東野孝保の選・書により長命寺および道標の賛語が八字六句の漢文で刻まれています。向かって左側面には「左 高野山十八丁」、右側面には「右 所さハちヽぶ道」と刻まれています。・・・以下略・・・」
 このような漢文が刻まれている道標は珍しいそうだ。練馬区登録有形文化財に指定されたのが平成24年1月とあり、新しく整備された道標である。
 東高野山長命寺は、御府内88箇所霊場の、第17番長命寺であり、今日お参りする予定の寺院である。道標のある場所から18丁(ほゞ2q)とあるのだから、さほど遠くない距離だが、ここは、一筆書きお遍路に拘ることにして、先に東武東上線成増駅の北にある、第19番青蓮寺に向かうことにした。



その10の目次@

第19番青蓮寺
第17番長命寺



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東高野山道と刻まれた道標
   
 
城北界隈から烏山。歩いた日は、2012年9月21日
お参りした寺院は、第16番三寶寺、第70番禅定院、第3番多聞院の3寺院

 西武池袋線の練馬高野台で下車して、石神井公園に向かって歩き始める。一駅先が石神井公園なんだから、そのまま電車に乗って行けばよいものを、歩き遍路の不連続区間を無くそうという拘りから、一駅手前で下車をした。
 石神井公園には石神井池と三宝池がある。この日歩いたのは石神井池の周辺だけである。三宝池は、第16番三寶寺の北側に広がっていて、歩く道筋に入っていない。池の周辺には、私の暮らしとは隔絶された豪邸が並んでいる。羨ましいとは思わない。無一文で東京に出てきて五十年の歳月が流れ、今の生活がある。これで十分満足している。ただ、私の好奇心は、豪邸で暮らす人々の今に至る変遷や、現在の暮らしを取巻く環境に興味を覚えるのだ。
 第16番三寶寺の脇で、「名物 焼きだんご 池田屋」という看板が目についた。ここだけが門前町と云う雰囲気である。砂糖醤油に浸し、こんがりと焼いた素朴な味のする串団子だった。あのTV放送、『ちい散歩』でも取り上げられたと云うことだ。
 旧早稲田通りから環状八号線に出て、ただひたすらに南下する。この日は朝から涼しく、歩くには良い季節になってきた。それでも、だくだくと汗が流れ、水分の補給は欠かせない。
 北烏山の第3番多聞院を出て、まだ余力を残していたので、さらに調布まで歩くことにした。次の遍路先は日野市に在る第25番長楽寺である。出来るだけ近づいておきたいという思いもある。
 甲州街道を西に向かって歩く。深大寺に寄ってみたいと思ったが止めた。これだけ歩くと足にかかる負担は大きくて、そんな余力はなくなっている。
 京王線の国領駅に寄った。続いて布田駅にも寄って見た。ひと月前の8月19日に、国領から西調布までの区間が地下化されたので、地上のプラットホームやレールがどんな状況に置かれているのかに興味があったからだ。廃墟となった駅舎は、まだ解体が進んでいない。切断されたレールの先端が鈍く光っていた。
 
   

その10の目次A

第16番三寶寺
第70番禅定院
第3番多聞院


ちょっと寄り道します
将軍の鷹狩と休憩所



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三寶寺門前にある焼きだんご池田屋
 
   
   
:京王線旧布田駅・切断されたレール
   
   
郊外@・、日野市。歩いた日は、2012年9月27日
お参りした寺院は、第25番長楽寺の1寺院

 京王線の調布駅南口から歩き始めた。鶴川街道に出て、多摩川に架かる多摩川原橋を渡る。強風で帽子が飛ばされそうになるが、風は爽やかで心地よい。川崎街道に入り西に向かって歩く。都内を歩いているのと違って、道筋がはっきりしているから地図を見る必要はない。稲城の市街地を抜けると、ゆっくりとした坂道に差し掛かる。勾配は緩いのだが、多摩市の連光寺坂上まで3Km以上も続いているので、膝から太股にかけて負担が掛かる。
 緑に囲まれた登り坂の途中で、あまり馴染みのない看板を見つけた。かなり古くなっているけど、英語と日本語で警告文が書かれている。そこには、「在日米合衆国軍隊−米合衆国空軍基地、横田空軍基地司令官の許可なく、此の区域に立入ることは法律違反である。当該施設に居る間は、すべての人は身体及び所持品の捜索を受けるかもしれない。不法な立入りには、日本国法律によって罰せられる。」と記されていた。
 この場所は、地図では「米軍多摩サービス補助施設」と書いてある。元々は大日本帝国陸軍の多摩火薬製造所(造兵廠火工廠板橋製造所多摩分工場)であったが、戦後米軍に接収され、米軍横田基地の弾薬庫として使用されていた。その後米軍基地の再編などから、今は米軍横田基地のレクリエーション施設として使用されている。広大な敷地で、ゴルフ場や乗馬施設などもあり、設備の整った宿泊施設もあるそうだ。年一回催される稲城フェステバルの時には、施設の中に入れるという企画がある。多摩ニュータウンは、この緑豊かで、広大な米軍施設の、もっと西の郊外に開発されているのだ。
 調布市をスタートして、稲城市から多摩市を抜け、日野市に入った。正面に高幡不動尊の五重塔が見える。多摩動物公園を示す標識に従って左折する。
   

その10の目次B

第25番長楽寺


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米軍施設の警告文
   
   
郊外A・神奈川県秦野市。 歩いた日は、2012年10月2日
お参りした寺院は、第77番仏乗院の1寺院

 第25番長楽寺から、第77番仏乗院までの距離は60kmを超えるだろう。とても一日で歩ける距離ではない。今の私の脚力では二日は掛かる。いや三日の距離だ。ここまで変則的ではあったが、何とか、歩きお遍路の不連続区間は無かった。が、しかし、遂に「キセル打ち」になってしまった。前にも書いたが、キセルとは昔の煙草を吸う道具で、吸い口と煙草を乗せる雁首との間が金属ではなくて竹管が使われているので、それに準えて、徒歩の不連続区間を私が勝手に「キセル打ち」と呼んでいる。
 小田急線の秦野駅で下車して歩くことにした。道程はおよそ7Kmほどだろうか。往復では14〜15Kmを歩くことになる。市街地を外れると、道は丹沢山塊に向かって延々と上り坂が続く。第77番仏乗院は、この丹沢山塊に突き当たった山肌にある。
 県道70号線を北に向かって歩いている。小蓑毛の集落に差し掛かると道路の中央に「阿夫利神社」の扁額が架かった石造りの鳥居があった。この道は、江戸時代に小田原方面から大山阿夫利神社への参拝者が歩いた「蓑毛通り大山道」であることが分る。大山詣での裏街道だ。

   

その10の目次C

第77番仏乗院


ちょっと寄り道します
大山道と大山詣で



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阿夫利神社の扁額が架かる石造りの鳥居
   
 


結願 杉並区和泉。歩いた日は2012年10月15日
お参りした寺院は、第88番文殊院の1寺院

  1年と4か月を掛けた「東京お遍路」もこれで結願である。札留の文殊院は杉並区の和泉に在るのだから、城西界隈を歩いた時のコースである。なれど、札留寺院は最後にお参りするのが信心の心得だろうと考えた。歩き終えた寺院で、文殊院に一番近いのが、第11番荘厳寺(幡ヶ谷不動)なので、再び荘厳寺にお参りして、そこから歩き始めることにした。
 地図を確認しながら、和泉仲通りに入り文殊院近くまで来たところで、「四国八十八箇所札打留」、側面に、「高野山弘法大師」と彫られた高さ2mほどの標石を見つけた。台座に朱色で左矢印が書かれて文殊院と記されていた。江戸御府内八十八ヶ所とは書かれてないけど、ああ、やっと終わるんだなぁと思う。

   

その10の目次D

第88番文殊院

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和泉仲通りにある「四国八十八箇所札打留」と彫られた道標