江戸六阿弥陀詣り  
「六あみだ」と彫られた道標

 
 ちょっと寄り道します。
 第56番与楽寺の門前に、六阿弥陀第四番與楽寺と彫られた標石があった。江戸期には、御府内八十八箇所の霊場が開かれる、ずっと以前から、「六阿弥陀詣」という風習があり、江戸庶民の娯楽として定着していた。行基の作と伝えられる阿弥陀如来が、6寺院に祀られている。
 第1番は北区豊島にある西福寺で、第2番恵明寺は、足立区江北にある。北区西ヶ原にある第3番無量寺は、もとは長福寺と称していたが、ある理由(第59番無量寺の項で触れます)から寺号を改めている。第4番与楽寺は北区田端にある。第5番常楽院は、台東区上野から調布市つつじが丘に移転したが、阿弥陀如来像は、池之端の東天紅の敷地内に祀られているそうだ。第6番は江東区亀戸の常光寺で、それぞれが幾多の変遷を経て、今に続いている。
 谷中寺町の加納院を出て、右にとって進むと、コンクリート造りの階段の上に出る。階段を下り、まっすぐ進むと歯医者さんのビルに突き当たる。その右脇の植え込みの中に「六あみだ」と彫られた、高さ1m余りの標石があり、南面には「是より下谷五番え十八町」、北面には「是より田畑四番え八町」と刻まれている。植え込みのつつじの木を手で除けながら、目を凝らさないと判読できない。標石の建っている道を南に進むと池之端に続き、北に進むと田端に出る。ここが、「六阿弥陀詣」の道筋であったことが分る。
 第1番西福寺について、『新編武蔵風土記稿』には、次のように書かれていて、そこに六阿弥陀の由来が記されているので、少し長くなるが、転記する。
 「新義真言宗、足立郡沼田村恵明寺末、三緑山無量壽院と稱す、本尊阿弥陀を置、是世に所謂六阿弥陀の一なり、縁起を閲するに、聖武帝御宇當国の住人豊嶋左衛門清光、紀伊国熊野権現を信し、其霊夢に因て一社を王子村に建立し、王子権現と崇め祀れり、然るに清光子なきを憂い彼社に祈願せしに、一人の女子を産す、成長の後足立少輔某に嫁せしか、奩具の備はらさるを以少輔に辱しめられしかは、彼女私に逃れ出荒川に身を投て死す、父清光悲に堪す是より仏教に心を委ねしか、或夜霊夢に因て異木を得たり、折しも行基當国に来りし故、清光其事を○(1字不明)告しに行基即かの異木を以て六體の阿弥陀を彫刻し、近郷六ヶ所に安置して彼女の追福とせり、故に是を女人成佛の本尊と稱す、當寺の本尊は、その第一なり、次は足立郡小臺村、第三は當郡西ヶ原村、第四は田畑村、第五は江戸下谷、第六は葛飾郡龜戸村なりと云う、此説もとより妄誕にして信用すへきにあらされと、當寺のみにあらす残る五ヶ所ともに、少の異同はあれと皆縁起なとありて世人の口碑に傳る所なれは、其略を記しおきぬ、旦清光は権頭と稱し、治承の頃の人なれは行基とは時代遥に後れたり、・・・以下、略・・・」 と言うことだが、信用すべきではないけれど、西福寺だけではなく、他の五ヶ寺も同じような縁起が伝わっている、と書いている。
 豊嶋清光は、平安後期から鎌倉時代にかけての武将であり、治承(1177〜80)から文治(1185〜89)にかけて、源義家、源義朝の配下で活躍した人物である。行基は奈良時代の高僧で、生没年は天地天皇7年 (668)〜天平21年(749)、とある。両者が生存していた時代には、500年近い開きがある。
 江戸時代には、年寄り達が、日頃の嫁いびりを懺悔するという口実で、物見遊山で六阿弥陀詣りをしたそうだ。今では、「六阿弥陀詣」の風習は廃れている。 (2012年4月21日 記)
 


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