第72番不動院(ふどういん)

     山号 阿遮山(あしゃざん)
     住所 台東区寿2-5-2
     参詣 2012年1月18日
     
 
不動院の山門

 
 浅草寺を出て合羽橋道具街通りに向った。調理、厨房備品に関わるものならば何でも揃うといわれる専門店街で、その数は170店以上といわれている。顧客の多くは飲食店であるが、いまや観光スポットとして、外人観光客にも人気を博しているようだ。
 文化年間(1814〜1817)に、湿地帯であった土地を、私財を提供して整備した合羽屋喜八なる人物の名をとって、合羽橋と呼ばれるようになったという。道具街の起源は大正元年(1912)ころから数軒の道具商が店を構えたことにあるという。100年の歴史がある。合羽橋道具街誕生90周年を記念して、平成15年に「かっぱ河太郎像」が建てられている。100周年には何が建つんだろう。
 不動院の門前に出た。山門があって石畳がある。参道と云える長さはない。本堂は近代的なコンクリートの陸屋根造りで、右手に庫裡が並んで、庭が細長く伸びている。山門がなければ、普通の民家に間違われてしまいそうだ。
 本尊は不動明王だ。縁起によると、奈良時代の良弁(ろうべん)の作と伝わっている。良弁は東大寺の前身といわれる金鐘寺で修行したことから、通称金鐘行者と呼ばれている。近江の国、百済氏の出身だとの説があり、渡来人の子孫であったのかもしれない。赤ん坊の頃、野良作業の母親が目を離した隙に鷲にさらわれて、奈良二月堂の前にあった杉の木に引っかかっているところを、法相宗(ほっそうしゅう)を広めたとされる高僧の義淵(?〜728年)に助けられ、僧として育てられたという。良弁は30年後、母と再会したという伝承があるが、定かではない。ただ、幼少より義淵に師事して学んだことは事実である。
 縁起の続きだが、良弁の作と云われる不動明王像は数奇な運命を辿ったようだ。各地を転々としたのであろう、最後には肥前平戸藩の松浦家の守護仏として祀られという。寛永14年(1637)の島原の乱に出陣した松浦家には霊験が現われたそうだ。元禄年間(1688〜1703)に浅草にあった松浦家上屋敷の鬼門に不動院があったことから、松浦家の祈願所として縁を結ぶことになり、像は不動院に納められた。
 般若心経を唱えようとしたのだが、他人様の玄関口に立っているようで、どうにも落着かない。手を合わせ、暫し瞑想して外に出た。  (2012年1月25日 記)
 
 
 


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