第37番満徳院(まんとくいん) 

     山号 瑠璃光山(るりこうさん)
     住所 江東区永代2-37-22
     参詣 2011年11月21日
 
二階建ての満徳院

  永代橋の上から東京スカイツリーが間近に見える。南側の佃島には高層住宅が林立している。郊外に住む私には見慣れない風景だ。暫らく眺めていた。
 永代橋について江戸名所図会には、次のように記述されている。「箱崎より深川佐賀町に掛くる。元禄十六年戊寅始めてこれを架せしめらる。永代島に架(わた)す、故に名とす。長さ凡そ百十間余り。この所は諸国への廻船輻湊の要津(ようしん)たる故に橋上至って高し。・・・略・・・、東南は蒼海にして、房総の翠巒(すいらん)斜めに開け、芙蓉の白峰は、大城の西に峙(そばた)ち、筑波の遠嶺は墨水に臨んで朦朧たり、台嶺(上野の山)・金竜の宝閣(金竜山浅草寺)は、緑樹の蔭に見えかくれて、自ら丹青を施すに似て、風光さながら画中にあるがごとし。」(カッコ内は、私の注釈) 今で言うならば、レインボーブリッジの天辺から眺めた様なものか。
 永代橋を渡って数分歩くと大きな三叉路がある。永大橋通りから葛西橋通りが分岐している。交差点の手前を左折した先に満徳院があった。レナウンの裏手になる。二階建てになっていて二階が本堂になっている。大通りから一筋入っているので静寂である。般若心経を唱え、一通りの儀式を終える。
 ガイドブックによると、満徳院は江戸時代の力士の墓を守る相撲寺だと書いてある。本道の裏手に続く墓地には、初代の式守伊之助ら行司、初代から五代までの伊勢之海親方、初代佐渡嶽親方、初代若松平次らの墓が並んでいると書いてある。満徳院の先から北に向って両国に続く清澄通りには、相撲部屋が集中している。そういえば、どこかの道筋で、「式守」と書かれた表札を見かけた。
 本堂脇から墓地に続く小路を入ってみたが、墓地の入口には鉄格子があり、無闇に入るわけにはいかない。境内には、戦災殉難者供養塔があった。昭和20年3月10日の東京大空襲の犠牲者の霊を弔うために建立されたという。このとき、江東区から墨田区一帯は焼土と化した。死者、行方不明者は10万人以上にも及んだ。
 戦後になって、木造家屋が密集した東京の下町を執拗に空爆し、明らかに非戦闘員を狙ったという批判があがった。これに対して東京大空襲の指揮をとった米軍の司令官は、次のように反論している。
 「私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊したのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙で出来た民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか・・・」、と。
 墨田区や江東区の多くの寺院には、戦災殉難者の供養塔がある。私は、軍需工場が集中していた兵庫県の加古川市で生まれた。焼夷弾が、キラキラと糸を引きながら舞い落ちてくるのを見た。幼い頃の忌まわしい記憶である。 (2011年12月12日 記)
 
 


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