第31番多聞院(たもんいん)

     山号 照林山(しょうりんざん)
     住所 新宿区弁天町100
     参詣 2012年5月5日
 
本堂と墓地分譲受付のテント
 
  すこし後戻りをして、牛込中央通りから矢来能楽堂の手前を左折し、多聞院のある弁天町に向かった。ここにも江戸時代からの地名がそのまま残っている。『江戸切絵図』には牛込弁財天町、あるいは弁天町として記されている。『江戸名所図会』には、同所にある雲居山宗参寺のところに、「弁財天町にあり」と書かれているので、もとは弁財天町であったものが、呼びやすい弁天町に変化したのだろうと思う。
 宗参寺は現存し、境内の広さは新宿区内では一、二を争う寺院である。伝承によると、上野国の豪族であった大胡重行の息子、勝行がこの地に移り、牛込氏を名乗り、牛込城を築いたと云われているが、牛込氏は藤原秀郷の子孫であるという説があり、天文13年(1544)、この時の城主であった藤原勝家によって創建された寺院で、牛込氏の菩提寺である。牛込の地名の起こりは、この牛込氏に由来するという説があるが、それは逆で、地名をとって牛込氏を名乗ったと云うことのほうが正しい。
 住宅街を歩いていて助かるのは、至る所に住居表示のプレートが、貼り付けられていることである。弁天町に入って気が付いたのだが、ここには住居表示のプレートが見つからない。新しい住居表示の改変が進んでいないことと関連しているのかもしれない。だから、多聞院の方向が掴めない。
 裏通りから、外苑東通りに出て左折し、凡その判断で歩いていたら、「墓地ご案内」「新墓地分譲中」、左矢印で「多聞院」と書かれた立て看板が目に付いた。本堂の右側に墓地があり、大正時代に一世を風靡した新劇女優、松井須磨子が眠っていると云う。墓地の入り口にテントが張られ、分譲を受付けている担当の男性と目があった。う〜ん、墓地に入るのは止めることにしよう。
 また、墓地には御府内八十八ケ所を開いたという「正等大阿闍梨」の供養塔があるそうだ。開基については、下総国松戸宿の諦信親子の名前が伝えられている。第1番高野山東京別院のところで触れた通りだ。まっ、どちらでもよいが、多様な展開があったと云うことだろう。
 縁起によれば、天正年間(1573〜92)に、今の千代田区平河町に創建され、慶長12年(1607)に、江戸城造営のために牛込御門外に移り、さらに寛永12年(1636)には、境内が堀の用地になったため、現在の地に移転したと云う。
 少し回り道になるのだが、22歳で上京し、8年間暮らした夏目坂、喜久井町に向かった。
(2012年5月24日 記)
 


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