第55番長久院(ちょうきゅういん)

      山号 瑠璃光山(るりこうざん)
      住所 台東区谷中6-2-16
      参詣 2012年2月27日
 
官軍兵士の流れ弾が中った痕跡

 
 長久院は、多宝院から通りに出て、左へ左へとぐるり廻った裏手にある。戦災に遭わなかったという、静かな佇まいの寺町通りが続いていて、左側に切妻屋根の薬医門が建っている。
 薬医門は、四本の柱で屋根を支える構造になっていて、屋根の重心が入口側にあるので、その重さを支えるため、入口側の柱が太くなっている。本来は公家や武家屋敷の正門に用いられたが、何時でも患者が出入りできるように扉を無くして、医家の門として用いるようになったので、この名前があるそうだ。ただ、諸説があるので定かではない。
 山門の左側潜り戸の上のほうに、直径4〜5cmの丸い穴があいている。慶応4年(1868)5月、戊辰戦争で官軍と彰義隊が戦って、寺町に逃げてきた彰義隊に向けて発砲した官軍兵士の流れ弾が中った痕跡だという。潜り戸の真ん中辺りにも穴が開いていたが、これは単なる壊れた傷穴だろう。
 縁起によると、慶長16年(1611)神田北寺町、今の千代田区錦町に創建されて、慶安元年(1648)に、谷中の現在地に移ってきた、とある。歩いてきた自性院や多宝院と同様である。
 本堂の前に閻魔様の石仏があった。お地蔵様の石像は何処にでも祀られているが、閻魔様の石仏を見たのは初めてだ。希少価値のある石仏だと思ったら、台東区の有形文化財に指定されていた。
 閻魔様の石仏は左右に司命、司録を従えていた。閻魔大王は死者の生前の行いに応じて、死後の行き先を決める裁判長であり、司命は判決文を読み上げる裁判官、司録は判決文を記録する書記官であると思えばよい。司命像は、その手に判決文が書かれた書面を持ち、司録像は筆記用具を持っている。
 陰暦の正月と7月の16日は、それぞれ初閻魔、閻魔の大斎日と云い、閻魔様以下、獄卒まで一斉に休むので、地獄の釜の蓋があいて、亡者も責苦から免れるという。奉公人のある家では、正月の16日を藪入り、7月を後の藪入りと称して、休暇を与えていた。奉公人には、御主人と云う怖い閻魔様から解放される日なのだ。このことから、「閻魔参」は、夏の季語になっているのが面白い。
 参詣客はいない。誰憚ることも無く声に出して般若心経を唱える。参道脇にある大師堂の前でも唱えた。相も変わらず、煩悩や雑念に追いかけられているが、般若心経を唱え、瞑想に耽っていると暫し心は安らぐ。
 境内は手入れの行き届いた植栽に囲まれている。紫陽花の咲く頃には、美しい風景に出会うことが出来るんだろうなぁ、と思う。 (2012年3月15日 記)
 


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