kazkaz奮戦記&社会批評 by kazkaz of 車輪の下


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私と社会学&社会批評


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■2011年01月29日(土)13:05  公務員人件費2割カット、公約実現に労組の壁・・。
 菅政権は28日、民主党がマニフェストに掲げた「国家公務員の総人件費2割削減」のための関係閣僚会合(議長・枝野幸男官房長官)を開いた。給与の引き下げや国の仕事のスリム化で2割削減を実現する方針を確認したが、公務員労組の説得など実現に向けたハードルは高く、見通しは立たない。会合には片山善博総務相、中野寛成公務員制度改革担当相らが出席。総人件費削減への具体策を検討するワーキングチームを設けることも決めた。(朝日新聞)

 権利ばかり主張して自らの実績を認めない労組には、厚い壁がある。
 彼らにとって正義とは己の利益を担保すること。
 国家政策上のミスがあっても他人ごとなのである。

国家公務員法において給与の基準は以下のように規定されている。
(給与の根本基準)
第六十二条  職員の給与は、その官職の職務と責任に応じてこれをなす。

 ということは、成果は関係ない?
 これが公務員の主張・正義なのかもしれない。

■2011年01月27日(木)15:23  ヘッセ・車輪の下(学校教育の本質)・・。
 私は、ヘッセ「車輪の下」で示される学校教育の本質について、下記の文章に驚愕を覚える。

 「教師の義務と国家から委ねられた使命は、年わかい少年のなかに宿っている自然のままの粗野な力と欲望を押さえつけて取り除き、そのかわりに穏健で、中庸な国家の認める理想像を植えつけることである。」−中略−「少年には、もともと何か野生的なもの、無軌道なもの、非文化的なものがある。それをまず打ち砕かなければならない。こういう危険な炎は吹き消され、踏み消されなければならない。自然が創造したままの人間は、予想も見通しもつかない危険な存在である。それは未知の山からほとばしり出た激流であり、道も秩序もない原始林のようなものである。原始林は伐り開かれ、整理され、野生が強制的に抑圧される必要があるように、学校は自然のままの人間の野生を破壊し、征服し、抑圧していかなければならない。学校の役目は、政府の認めた原則にしたがって、自然のままの人間を社会の有能な一員とし、自己の特性を発見させることである。そして、それぞれの特性の最後の仕上げは、兵営での周到な訓練というわけだ。」

 学校教育は、その粗野で野蛮な人間本来が持っている性質を抑圧し、国家に従順な人間を育成することに重点が置かれる。なるほど、その通りである。
 しかし、そのような枠組みでは、人間本来が持っている有用な資質も同時に抑圧され、破壊されてしまうではないかと思慮する。
 何事にも縛られない自由な発想力は、こうした学校教育の下では封印されてしまうのである。
 学校教育に内在する問題。それを解く鍵は未だ見つからない。

追記:本記事をTopicsに追加しました(2011/06/03)。→ヘッセ・車輪の下(学校教育の本質)

■2011年01月27日(木)01:00  国の借金 過去最高 997兆円に・・。
 国債や借入金などを合計した「国の借金」が2011年度末見込みで、過去最大の997兆7098億円に膨らむことが26日、政府が国会に提出した予算関連資料で明らかになった。今年1月1日時点の推計人口(1億2737万人)で割ると、国民1人当たり約783万円の借金を背負う計算となる。11年度予算案での新規国債発行額が44兆2980億円と、当初ベースとして2年連続で税収を上回る事態が続くのが主因だ。借金が雪だるま式に増え続ける財政の危機的状況が改めて浮き彫りになった。10年度末見込みは943兆1062億円で、国民1人当たり約740万円の借金となる。(時事通信)

 膨大な借金である。このまま借金が増え続ければ、日本国家は破綻する。
 そこで、より一層の財源確保を図るため、消費税増税論が浮上している。消費税の増税は、確かに財源確保には有効であるが、国民の負担は増加する。やはり、国の財源問題を解消するためには、強い経済の仕組みを考案して、経済界からの税収入を確保することが重要である。強い経済構造が構築されることで強い財源確保が可能となるのである。
 今、なぜか、消費税増税による財源確保論のみに重点が置かれ、有効な経済体制の変革論が議論されていない。なぜ、議論されないのかは、摩訶不思議である。
 また、こんなに国が財政危機に陥っているのに、その責任を負う行政に携わる国家公務員の給与が大幅に削減されないのは摩訶不思議である。そんな連中の査定は最低のF評価である。それなのに、評価が高く世間並み以上の給与とボーナスが貰えるなんて信じられない。国家公務員の成績評価は、国家の運営の失敗も加味した現実的な評価でなければならない。そう思うのである。
 所詮、小役人のエリート集団。国家・国民の奉仕者ではなく、頭の中にあるのは自分の待遇と出世のことだけである。だから、国家は衰退するのである。
 菅首相は、政治主導を転換して官僚との対話路線を復活するようであるが、無能な官僚からは、何等有効策は出てこない。それは、日本の政治の歴史が証明している。

■2011年01月23日(日)08:39  与謝野経済財政担当相・・年金支給開始年齢の延長・・。
 与謝野馨経済財政担当相は21日、首相官邸で開かれた新成長戦略実現会議の席上、「『人生90年』を前提として定年延長を考え、同時に年金の支給開始年齢を引き上げることが考えられる」と述べた。会議は非公開で、終了後に平野達男内閣府副大臣が記者会見で説明した。与謝野氏はこの発言の趣旨について22日未明にコメントを発表し、人生90年時代になり定年が延長された場合は、年金支給開始年齢の延長も検討対象になるという「中長期の日本のビジョンとして述べたものだ」と説明。「当面の社会保障・税一体改革において年金支給開始年齢延長を検討する旨を述べたものでは全くない」と強調した。

 この発言は全然意味が分かりません。全然現在の社会とかけ離れた机上の理論です。今の現在社会、資本主義経済の萎縮で企業の雇用調整は重要な問題になっています。老齢者が会社に長く雇用されるということは、人件費の増加と新入社員の新規雇用を抑制します。今以上に、企業の負担は重くなります。
 却って、企業は、高齢の労働者を早期退職制度で早期に雇用契約を解除し、従業員を削減する方向に走っているのです。そのような状況で、定年延長なんて論じるのは夢の夢の話です。現在社会を考慮していない。
 高齢従業員の定年延長を促進するためには、崩壊しつつある資本主義体制を強化にし、人を必要とする社会を構築する必要があります。しかしながら、そのようなことが簡単にできますか?
 これらは、現在及び今後の経済状況・景気状況を把握していない理論であり、あまりにも現在社会とかけ離れた愚策の提案です。
 将来の展望が見えていない。今後の定年延長なんてまるで馬鹿げた話です。
 自民党時代に鍛えたどんぶり勘定論はもう捨てましょうよ。
 誰が考えたって見通しが甘すぎる。
 将来展望も予測できない馬鹿な閣僚にこの国家を任せるのはもううんざりです。
 この国の政治家の将来展望は甘すぎる。そう実感します。
 民主党も馬鹿な政治家を閣僚と迎えたものです。
 あきれ返っているのは私だけでしょうか? うむむ・・。

■2011年01月23日(日)03:57  「車輪の下」再論考・・。
 ヘルマン・ヘッセ著「車輪の下」は、今日の詰め込み教育の弊害を批判したものと巷では考察されているが、実はニュアンスは少し違うと思う。
 「車輪の下」は、当初表題が「天才」となっていたが、何らかの事情で表題変更がなされたものであるとあるサイトで説明されていた。私も、「車輪の下」の表題よりも「天才」という表題の方が適切であると思う。天才の悲劇を訴えていると思うからだ。
 「国家」は、国家に忠実で、中庸な小市民を育成する。ヘッセの生きた時代、全体主義の時代、その国家の最終目標は、国家のために忠実に命を捧げる国民の兵営教育にあった。国家の理想像を国民に植え付ける思想教育に重点が置かれたのである。一人の天才を養成するよりも、その国家の理念を多数の国民に植え付けることが最重要視されていたのだ。
 何も疑わずに国家の引くレールを進んでいく中庸な小市民。その陰で、天才は社会から外れていく。それを救済する者はいない。この天才の悲劇をヘッセは「車輪の下」で訴えたかったのであろうと思う。
 今日、全体主義が否定され、個人の尊厳を基調とする社会へ変貌を遂げた。この点で、ヘッセの批判する全体主義的な教育体制はもはや過去の遺物となった。
 しかし、この国家の教育体制は、資本主義社会を追求する競争社会へと変遷していく。資本主義社会を拡大するための競争社会原理を国民に植え付けることが国家の理想像とされていく。そのために、競争を煽り、国家の犬となる官僚を育成していく。競争社会についていけない弱者は、その競争社会の底辺に置かれる。そして、画一的な教育体制についていけない天才は、社会から離脱してしまう。
 勿論、現代の画一的教育を受けながらも挫折せずに偉業を遂げる天才もいる。しかし、それはごく一部に過ぎない。
 不幸なのは、競争社会の中で埋もれていく「多数の天才達」の存在だ。彼らは、悲鳴を上げ、無言の反抗に精も根も尽き果てて破滅していく。この競争社会の中で埋もれていく「多数の天才達」を社会は救済できないのであろうか。
 確かにヘッセが言うとおり、本当の天才は学業などをものともせずに偉業を成し遂げる。しかし、その力の無い天才は不運の一生を遂げる。それを回避するためには、教育の改革が必要であると思う。
 国家の理想像を植えつけるためには、国民一人ひとりに画一的な教育体制を敷くことが重要なのかもしれないが、もっと個人の特性を見つけ、その才能を発揮できる教育体制を敷くことも重要であると思われる。そのためには、教師が生徒個人個人の特性を見抜く能力が必要である。単に成績の良し悪しではなく、生徒個人が本来持っている資質を見抜く能力が必要である。そのためには、教師の洞察力は磨かれなければならない。それが今望まれる教育改革であると思われる。
 ヘッセは、埋もれていく天才達の悲運を嘆いている。本来、彼らが、この社会の文化を変えていく原動力となることを確信している。そんな天才達の教育のあり方について考えられていかなければならないのである。
 繰り返すが、ヘッセは、今日の詰め込み教育の弊害の問題提起をしているのではない。教育の中で埋もれていく天才達の悲運を社会に訴えているのである。そう思う。

追記:本論稿をTOPICSにUPしました。→「車輪の下」最論考 少し、アレンジしています。

■2011年01月23日(日)00:57  3値論理、擬似4値論理が分からない・・。
 私は、2ビット4値論理の論文の公表をしていますが、特許文献を主とする先行文献が多数挙げられています。良く分からない特許文献もあるので、詳細な検討はできませんが、ここで疑義・混乱を避けるため、先行特許文献と私の考えたCO4値論理との違いを考察しようと思います。
 従来の特許文献で示される2ビット4値論理は、真,偽,不定の3値論理にハイインピーダンスを加えた擬似4値論理です。
 この3値論理,擬似4値論理で定義される不定という状態の判定方法は従来の特許文献に記載されていません。この不定の判定方法が既知の技術だとしても、本当に不定という状態を判定できるか否かはよく分からないのです。
 真でも偽でもない状態を不定と考えるならば、不定は、CO4値論理のように、none(真でも偽でもない),conflict(真でもあり偽でもある)という2つの不定情報・状態を判定・定義できる必要があります。つまり、この2つの不定情報を3値論理が定義する不定という一つの状態に押し込めることは、制御情報を正確に把握できないという欠点を有しているものと考えます。若し、noneだけを捉え、conflictを偽と定義してしまえば問題はないのでしょうが、それでは、本質的な解決にはなりません。ゆえに、3値論理及び3値論理を前提とする擬似4値論理は、不完全な理論だと考えられます。
 従って、この問題が解決されない限り、特許文献に示される擬似4値論理の発明は、未完成発明だと考えられます。仮に、3値論理の問題が解消できる概念、技術が存在したとしても、その判定回路はCO4値論理より複雑になると考えられます。
 このように、擬似4値論理の特許文献では、必要な制御情報の判定方法が記載されていませんので、そこからCO4値論理を否定するのは妥当とは思えないのです。
 また、このような理由から、擬似4値論理の真理値表とCO4値論理の真理値表は明らかに異なっているということは明白です。真理値表は、論理学の命なので、譲れません。
 なお、真理値表を参照しないで論理演算を行う技術は、通常の技術者ならば容易に考えられる事項であり、それ自体を問題とすることにはCO4値論理を否定する根拠とはなり得ないと考えられます。
 従って、結論としては、従来の擬似4値論理の技術では、CO4値論理は否定できないものと考えます。
 その点を読者の方々にご理解頂けたら幸いです。
 一度公表した論文の弁明をすることは本意ではありません。本来、論文本来の内容でその優劣が定まることが妥当だと思います。しかし、疑義・混乱を避けるため、敢えて再弁明をした次第です。その点をご了承願います。

■2011年01月08日(土)10:39  明けましておめでとうございます。
 明けましておめでとうございます。 
 去年の統括をしないまま年があけてしまいました。
 この頃、ニュースなんか見ても、批評をする気が起きません。感情と、思考力が鈍化しているみたいです。
 景気が回復するような兆しもなく、今年も昨年と同じように不景気な状態が続くと考えられます。
 ところで、民主党小沢元代表の国会での弁明問題で揉めていますね。クリーンな政治を実現することは望ましいことですが、政治というものはどろどろとしたものです。
 多数決原理が支配する民主主義という仕組みは、一見正義を実現するように見えますが、多数派の私欲を満たすための不公平な装置です。
 すなわち、日本の政治は、憲法で国民主権を標榜していますが、実は多数派の選挙民によって選ばれた国会議員が、その選挙民の利権を実現する所謂人民主権であるのです。本来の国民主権の実現なんてありえません。社会で蔓延っている民主主義は欠陥装置なのです。
 そういうわけで、民主党小沢元代表の尻尾切りを行っても、一時的にクリーンなイメージを与えることはできますが、現実のどろどろとした政治の構造は払拭できないのです。
 今、クリーンな政治を求めるよりも、やることは他にあると思うのです。
 与党、野党も、現在の経済構造を根本的に立て直す政策の提言を行うことが最も重要です。そのような政策の提言を行えば、国民の評価も自ずと高くなるのではないでしょうか。そう思うのです。
 早く、明るい社会が訪れると良いのですね。
 そう願って、本年もこの日記をしたためます。
 それでは、また。

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