−ヘッセ「車輪の下」再論考−
天才の悲劇・・。
ヘルマン・ヘッセ著「車輪の下」は、今日の詰め込み教育の弊害を批判したものと巷では考察されているが、 実はニュアンスは少し違うと思う。
「車輪の下」は、当初表題が「天才」となっていたが、何らかの事情で表題変更がなされたものであると某サイトで説明されていた。 私も、「車輪の下」の表題よりも「天才」という表題の方が適切であると思う。天才の悲劇を訴えていると思うからだ。
「国家」は、国家に忠実で、中庸な小市民を育成する。ヘッセの生きた時代、全体主義の時代、その国家の最終目標は、 国家のために忠実に命を捧げる国民の兵営教育にあった。国家の理想像を国民に植え付ける思想教育に重点が置かれたのである。 一人の天才を養成するよりも、その国家の理念を多数の国民に植え付けることが最重要視されていたのだ。
何も疑わずに国家の引くレールを進んでいく中庸な小市民。その陰で、天才は社会から外れていく。それを救済する者はいない。 この天才の悲劇をヘッセは「車輪の下」で訴えたかったのであろうと思う。
今日、全体主義が否定され、個人の尊厳を基調とする社会へと変貌を遂げた。 この点で、ヘッセの批判する全体主義的な教育体制はもはや過去の遺物となった。
しかし、この国家の教育体制は、資本主義社会を追求する競争社会へと変遷していく。 資本主義社会を拡大するための競争社会原理を国民に植え付けることが国家の理想像とされていく。 そのために、競争を煽り、国家の犬となる官僚を育成していく。 競争社会についていけない弱者は、その競争社会の底辺に置かれる。 そして、画一的な教育体制についていけない天才は、社会から離脱してしまう。
勿論、現代の画一的教育を受けながらも挫折せずに偉業を遂げる天才もいる。しかし、それはごく一部に過ぎない。
不幸なのは、競争社会の中で埋もれていく「多数の天才達」の存在だ。 彼らは、悲鳴を上げ、無言の反抗に精も根も尽き果てて破滅していく。 この競争社会の中で埋もれていく「多数の天才達」を社会は救済できないのであろうか。
確かにヘッセが言うとおり、本当の天才は学校などものともせずに偉業を成し遂げる。 しかし、その力の無い天才は不運の一生を遂げる。それを回避するためには、教育の改革が必要であると思う。
国家の理想像を植えつけるためには、国民一人ひとりに画一的な教育体制を敷くことが重要なのかもしれないが、 もっと個人の特性を見つけ、その才能を発揮できる教育体制を敷くことも重要であると思われる。 そのためには、教師が生徒個人個人の特性を見抜く能力が必要である。その特性は、新しい観点から捉える国家の理想像である。 単に成績の良し悪しではなく、生徒個人が本来持っている個人の才能の中に眠っている超文化的資質を見抜く能力が必要である。 そのためには、教師の洞察力は磨かれなければならない。それが今望まれる教育改革であると思われる。
ヘッセは、埋もれていく天才達の悲運を嘆いている。本来、彼らが、この社会の文化を変えていく原動力となることを確信している。 そんな天才達の処遇を考えていかなければならないのである。優秀なエリート集団よりも、多くの天才達を育成することが国家の 文化発展に寄与するのである。そのことを考えなければならない。
繰り返すが、ヘッセは、今日の詰め込み教育の弊害の問題提起をしているのではない。国家の理想像と、学校という教育体制の根本に内在する問題, 教育の中で埋もれていく天才達の悲運とその文化発展の損失を社会に訴えているのである。そう思う。