近 世(天明8年-明治の神仏分離以降)の 喪 失 塔 婆 |
近世の喪失塔婆 |
喪失時期 | 概 要 |
山城卯木山妙蓮寺三重塔 | 天明8年 | 天明の大火、天明8年(1788)の大火で類焼。跡地なし。 (おおよその推定可能) |
山城具足山妙顕寺五重塔 | 天明8年 | 天明の大火、天明8年(1788)の大火で類焼。跡地なし。 (おおよその推定可能) |
山城具足山妙覚寺多宝塔 | 天明8年 | 天明の大火、天明8年(1788)の大火で類焼。跡地なし。 |
山城六条本圀寺五重塔 | 天明8年 | 天明の大火、天明8年(1788)の大火で類焼。跡地なし。 |
山城卯木山本能寺三重塔 | 天明8年 | 天明の大火、天明8年(1788)の大火で類焼。跡地なし。 |
山城相国寺三重塔 | 天明8年 | 天明の大火、天明8年(1788)の大火で類焼。跡地は現在後水尾天皇御歯髪塚となり、この塚 が跡地という。なお現在塚の南にはニ重宝形造の経蔵が建立されている。 |
山城誓願寺三重塔 | 天明8年 | 天明の大火、天明8年(1788)の大火で類焼。跡地なし。 |
山城神泉苑多宝塔 | 天明8年 | 天明の大火、天明8年(1788)の大火で類焼。跡地なしと推定される。 |
山城祇園感神院多宝塔 | 寛政年中 | 寛政年中(1789-1800)の火災で焼失。塔跡は廃滅と思われる。 |
大和唐招提寺東塔 | 享和2年 | 享和2年(1802)雷火により焼失。文化元年(1804)とも云われるが根拠不明。 心礎は東京に売却され、近年には椿山荘にあったが破壊される。→大和唐招提寺心礎。 |
山城鞍馬寺多宝塔 | 文化11年? | 近世には多宝塔が存在し、 文化11年(1814)全山の火災で類焼、以降再興されずと推定される。多宝塔は昭和に別の場所に再興される。 |
陸奥円蔵寺三重塔 | 文政元年 | 文政元年(1818)火災焼失、その後再興されず。塔は文化5年(1808)の再興であった。 |
尼崎本興寺多宝塔 | 文政5年? | 文政5年(1822)類焼し、その後再興されず。なお、今は本堂背後に三重塔が建つ。 |
身延山多宝塔(日朝建立) | 文政7年 | 文政7年(1824)火災焼失、弘化3年(1846)再興、明治8年火災焼失、以降再興されず。 |
甲斐身延山五重塔 | 文政12年 | 文政12年(1829)火災焼失、万延元年(1860)再興、明治8年火災焼失、2009年再興。 |
大和正暦寺三重塔 | 天保7年? | 天保7年(1836)の火災で三重塔も焼失したと推測される。塔跡現存。 |
上野貫前社三重塔 | 天保12年 | 天保12年(1841)火災焼亡。塔礎石完存。 |
湯島円満寺多宝塔 | 幕末頃? | 弘化3年(1846)焼失?。不詳。 |
三河猿投大明神三重塔 | 嘉永6年 | 嘉永6年(1853)焼失。塔跡は残るも、地上にはほとんど遺構を留めない。 |
伊豆三嶋大明神三重塔 | 嘉永7年 | 嘉永7年=安政元年、安政の地震で倒壊、その後は再興されず。塔跡廃滅、礎石1個残存。 |
大和元興寺五重塔 | 安政6年 | 安政6年(1859)焼失。塔跡ほぼ完存。 |
上野板倉宝福寺三重塔 | 文久元年 | 文久元年(1861)火災焼失。塔跡消滅と思われる。なお本塔に安置と推定される舎利、舎利容器、石櫃(舎利容器奉安容器)が現存する。 |
下野中禅寺三重塔 | 文久2年? | 文久2年(1862)焼失。塔跡消滅と思われる。 |
大和眉間寺多宝塔 | 文久2年 | 文久2年(1862)聖武天皇陵改変で、宝塔破却、本堂庫裏を壇下に移す、王政復古後廃寺。 但し、聖武天皇陵と称する山陵内には明確に伽藍跡の地形を残す。 |
三河鳳来寺三重塔 | 文久3年 | 文久3年(1863)火災焼失。跡地の推定は可能。元治元年(1864)焼失とも云う。 |
山城淀姫社多宝塔 | 幕末・明治初頭? | 安政5年の寺社明細帳等に記載あり。幕末頃までは存在していたと思われる。跡地は河川敷となり全く消滅。 |
大和興福寺勧学院多宝塔 | 明治維新頃? | 八角多宝塔、寛政年中以降に廃絶、明治の神仏分離の頃まで存続していた可能性が高いと思われる。跡地は全く不明(勧学院位置は推定可能) 。 |
山城離宮八幡宮多宝塔 | 元治元年 | 元治の兵火(1864)で焼失と思われる。礎石完存。 |
上野長楽寺(東照宮)本地塔 | 明治初頭 | 神仏分離で取壊し。跡地には本地塔跡の「標」がある。 |
常陸筑波山中禅寺三重塔 | 明治2年? | 神仏分離で破壊。明治5年とも云う。 |
下総金剛寶寺三重塔 | 明治元年 | 神仏分離で破壊。金剛寶寺は香取神宮別当であった。 |
東叡山寛永寺多宝塔 | 明治元年 | 雲水塔、戊辰の役(彰義隊の兵火)で焼失。 |
鎌倉鶴岡八幡宮大塔 | 明治3年 | 神仏分離で取壊し。近年の発掘調査で礎石据付穴が発掘される。(地表には何も残らない。)ただし取壊し直前の大塔写真は幸いにも数点残され、雄姿を偲ぶことは可能。 |
江島弁財天女社三重塔 | 明治元年 | 神仏分離で破壊。塔跡は推定可能も、塔跡は廃滅。 |
甲斐岩殿山三重塔 | 明治初頭 | 神仏分離で取壊。塔跡は地表には痕跡を残さない。塔礎石は移設して保存。 塔の四天柱1本が旧常楽院跡民家に残存する。 |
甲斐北口本宮三重塔 | 明治初頭 | 神仏分離で取壊。記録は三重塔であるが絵図では宝塔と思われる。またこの塔は木造ではなく石製の可能性が極めて高い。基壇が登山門西に残る。 |
遠江秋葉寺多宝塔 | 明治6年頃? | 神仏分離でおそらく棄却されたもの?と思われる。 |
駿河久能山五重塔 | 明治6年 | 神仏分離で売却・破壊。塔跡完存。五重塔写真現存。 |
三河足助八幡宮多宝塔 | 明治初頭 | 神仏分離で破壊と思われるも、情報が少なく詳細は全く不詳。 |
信濃上諏訪神宮寺五重塔 | 明治元年 | 神仏分離。棄却。神宮寺跡・五重塔跡などは推定可能。 |
信濃下諏訪神宮寺三重塔 | 明治元年 | 神仏分離。棄却。神宮寺跡地は全て民有地(宅地)となり、正確に復元は不能。 |
北野天満宮多宝塔 | 明治元年 | 神仏分離。破壊して売却。擬宝珠・扉は転用して現存、本尊も現存?。現在コンクリート製の宝物館が建てられている附近が塔跡と推定されるも不明。 |
山城東漸寺多宝塔(不確実) | 明治維新前後か | 東漸寺多宝塔の唯一の存在根拠は「東山名勝圖會」である。多宝塔存在の有無、所属が東漸寺であるか否かなどは一切情報が無く、多宝塔の存在自体が不確実である。 |
山城石清水八幡宮西谷大塔 | 明治元年 | 神仏分離で売却・破壊。大塔のあった西谷は全く変貌するも、近年の発掘調査で大塔遺構の一部が出土する。 |
山城石清水八幡宮多宝塔 (琴塔) |
明治元年 | 神仏分離で売却・破壊。東谷宝塔院多宝塔(琴塔)跡は半壊するも残存。 |
大和中川寺多宝塔 | 明治初頭 | 明治維新までは多宝塔が存在したと思われる。明治維新後廃寺となり、詳細不詳。 伽藍配置は繪圖などが残らず、良く分からない。広大な寺跡はほぼ山林となり、現地での多宝塔位置などは確定できない。 |
大和内山永久寺 西谷薬師院三重塔 |
明治元年? | 江戸期末頃退転?もしくは明治元年廃仏毀釈で破壊?。履歴ははっきりしない。 塔跡地現存。 |
大和内山永久寺八角多宝塔 | 明治元年 | 廃仏毀釈で破壊。塔跡も破壊。跡地はおおよその推定可能。 |
大和平等寺ニ重塔 | 明治元年か | 2004年ニ重塔は釈迦堂として再興。 |
大和大御輪寺三重塔 | 明治元年 | 神仏分離で破壊。跡地は推測可能であるが、塔跡は消滅。 |
大和吉野山蔵王堂大塔 | 早くに退転、仮堂の取壊時期不詳 |
江戸初期には既に退転し、その後は仮堂のままであったと思われる。仮堂も幕末或は明治維新の時に取壊しか、大正3年にも仮堂の記録があるので、その後の取壊しの可能性あり。 塔基壇が残存する。(ただし金峯山寺では残存する基壇が塔基壇であることを否定する。) |
大和吉野山安禅寺多宝塔 | 明治6年? | 神仏分離。塔跡の凡その推定は可能であるが、塔跡は廃滅。(発掘調査未実施) |
摂津住吉神宮寺東塔 | 明治5−6年 | 東塔:神仏分離で明治6年取壊。跡地は破壊。西塔は明治5年阿波切幡寺に売却→現存。 |
摂津平野熊野権現多宝塔 | 明治4年 | 神仏分離で破壊。跡地消滅、おおよその位置の推定は可能。 |
和泉大鳥山神鳳寺五重塔 | 明治6年? | 神仏分離で破壊。塔跡は消滅。 |
和泉家原寺多宝塔 | 明治初頭? | 明治維新の混乱で退転と推測(経緯・時期は不詳) |
紀州東照宮三重塔 | 明治5年 | 神仏分離で破壊。塔基壇へ至る石段残存。塔基壇付設石段も残存している可能性あり。 |
紀伊天野社多宝塔 | 明治5年 | 神仏分離で破壊。塔跡は推測可能。 |
紀伊東光寺多宝塔 | 明治初頭 | 神仏分離で破壊。あるいは明治36年まで残存するも、同年火災焼失したとも云われる。塔跡は廃滅と思われる。 |
播磨転法輪寺三重塔 | 明治維新 | 明治維新直後に焼却処分と伝える。三重塔跡は現存。 |
出雲日御碕神社 三重塔ならびに多宝塔 |
明治維新 | 神仏分離で棄却されたと云う。神仏分離の確たる資料がなく詳細不明。 |
播磨室明神社多宝塔 | 明治維新 | 神仏分離で破壊されたものと思われる。神仏分離の確たる資料がなく詳細不明。 塔跡現存。 |
讃岐金毘羅大権現多宝塔 | 明治3年 | 神仏分離で明治元年廃止、明治3年取払い。塔跡は全く消滅。ただし跡地の推測は可能。 |
讃岐石清尾八幡宮多宝塔 | 明治維新 | 神仏分離で破壊されると思われる。神仏分離の確たる資料がなく詳細不明。塔の位置は現地で探索するも良く分からない。 |
筑紫安楽寺天満宮本地塔 | 明治維新 | 神仏分離で破壊、多宝塔形式の塔であった。 |
豊後柞原八幡宮多宝塔 | 明治5年直後 | 少なくとも明治5年まで存続、その後は不詳。明治5年直後には神仏分離の処置で取壊。 |
肥後白木山妙見多宝塔 (八代妙見) |
明治維新 | 近世の絵図には多宝塔が描かれる。確たる資料はないが明治の神仏分離の処置で取壊と思われる。 |
佐渡蓮華峯寺多宝塔 | 明治初期 | 寺伝では明治初期まで存在と云う。大雪で倒壊。塔跡推定可能。 |
山城真宗院ニ重塔? | 不明 | 開山塔(二重塔)があった位置に、現在は二層堂(開山廟)がある。この両者の関係は不明。 |
土佐室戸山最御崎寺多宝塔 | 明治まで存在 | 詳細不詳。昭和五十五年建立多宝塔現存。 |
土佐足摺山金剛福寺多宝塔 | 明治維新前後まで存続か | 詳細不詳。明治13年再興多宝塔現存。 |
身延山多宝塔(日朝建立) | 明治8年 | 弘化3年(1846)再興塔、明治8年類焼、以降再興されず。 |
甲斐身延山五重塔 | 明治8年 | 明治8年身延山大火で類焼。元和5年建立→文政12年焼失→慶応元年の再興塔であった。 五重塔は近年本堂前に再興される。塔跡現存。 |
大和長谷寺三重塔 | 明治9年 | 焼失。塔跡ほぼ完存。昭和29年すぐ北隣に五重塔として再興。 |
近江桑実寺三重塔 | 明治13年? | 住職は明治13年老朽化のため三重塔取壊と云う。しかし江戸期末頃、失われた可能性が高い。塔跡全く消滅?。塔の柱と称する遺物が残る。再興計画あり。 |
大和松尾寺三重塔 | 明治21年 | 慶安2年(1649)の再興塔は、老朽化のため明治21年までに大修理。 ※明治21年再建とする説もあるが、厳密には大修理であろう。 |
加賀金澤卯辰山観音院三重塔 | 明治22年 | 明治22年塔より出火・全焼する。塔および塔跡の詳細は不明。 |
尾張大須観音五重塔 | 明治25年 | 焼失。塔跡は全く分からない。 |
尾張竜泉寺多宝塔 | 明治28年以前 | 塔の退転理由・時期は不詳。多宝塔は明治28年再興され、仁王門向かって左に位置が変更されていると思われる。 |
土佐竹林寺三重塔 | 明治32年 | 台風・倒壊。塔土壇・礎石を残す。2016年塔跡発掘調査され公開される。 竹林寺では昭和55年やや場所を替えて五重塔を再興する。 |
常陸村松虚空蔵堂三重塔 | 明治33年 | 火災類焼。塔跡は消滅と思われる。平成10年本堂裏手に三重塔再興。 |
豊前求菩提山護国寺ニ層塔 | 明治33年 | 台風により倒壊、塔跡は概ね良好に残存する。 |
尾張祐福寺多宝塔 | 明治35年 | 焼失。若干の古材を残す「塔堂」が建立され、残欠として存在する。 |
下総大慈恩寺利生塔 | 明治35年頃 | 塔履歴の詳細は現在未入手。土壇・礎石残存。 |
山城安祥寺多宝塔 | 明治39年 | 焼失。塔跡は基壇・礎石・石段・塔前石灯篭などをほぼ完存する(一部崩壊)。 |
大和吉野山蹴抜塔 | 明治39年焼失か | 江戸初期・中期には上重を失い、初重のみとなる。この荒廃した初重は明治39年失火のため焼失とも、あるいは五円で売却され買主が塔の金物を取り外し火を掛けたとも云う。 大正期塔堂再興。 |
播磨清水寺大塔 | 明治40年 | 焼失。大正12年再興。→昭和40年台風・大破・取壊。塔跡残存。 |
重須(北山)本門寺五重塔 | 明治42年 | 明治42年五重塔修理中の失火により諸堂の大半を焼失。塔跡には土壇・礎石ほぼ完存。 |
陸奥應物寺五重塔 | 大正2年 | 大正2年暴風雨により倒壊、そのまま腐朽する。塔跡・礎石(台石)は現存。 |
信濃清水寺三重塔 | 大正5年 | 焼失。塔跡は土壇・礎石が残存。 |
上野不動寺多宝塔 | 大正6年 | 雷火・焼失。塔跡現存と云う。寛文年中(その多少後)の建立塔婆であったと推定される。 |
尾張福寿院多宝塔 | 昭和8年 | 焼失。戦災で一帯の様子は一変し、塔跡は全く分からない。 |
摂津四天王寺五重塔 | 昭和9年 | 台風・倒壊。昭和16年再興。→昭和20年焼失。 |
美作佛教寺三重塔 | 昭和9年 | 台風・相輪落下。その後腐朽し倒壊。塔跡残存するも遺物はなし。 |
阿波大山寺三重塔 | 昭和15年 | 山火事で類焼。塔跡は推定可能と思われるも、破壊されているとの情報あり。 |
大和法輪寺三重塔 | 昭和19年 | 落雷・焼失。昭和50年再興。 |
遠江頭陀寺三重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。塔跡は消滅。 |
武蔵浅草寺五重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。塔心礎の埋込標石あり。昭和38年場所を替えて再興。 |
摂津四天王寺五重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失(昭和9年再興塔)。昭和34年再興。 |
尾張七ツ寺三重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。戦災で一帯の様子は変貌を遂げ、塔跡は全く消滅。 |
武蔵宝仙寺三重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。塔跡は保存。平成4年宝仙寺境内に三重塔再興。 |
芝増上寺五重塔(丸山) | 昭和20年 | 空襲・焼失。塔跡は消滅の模様。台徳院宝塔(木造)も焼失。 |
芝増上寺台徳院宝塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。木造宝塔(屋内塔) |
備前蓮昌寺三重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。戦後の復興の都市計画で蓮昌寺境内は一変し、塔跡は消滅。なお心礎と称する礎石があるが、心礎である ことは極めて疑わしい。 |
阿波大滝山三重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。塔跡には聖観音堂がある。堂床下に礎石が残存すると云うも確認不能。 |
越前幸臨寺三重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。幸臨寺も移転し、塔跡は全く分からない。写真も全く入手できない。 |
下総円福寺多宝塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。塔跡は消滅。 |
和泉妙国寺三重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。塔跡消滅と思われるも、礎石跡と称するものがあるが、疑問である。 |
和泉大寺(開口神社)三重塔 | 昭和20年 | 空襲・焼失。塔跡消滅、ほぼ跡地の推定は可能。 |
紀伊高野寺三重塔 | 昭和20年 | 昭和20年7月9日・空襲・焼失。全く塔跡の痕跡はないが塔跡の推定は可能。 写真数点を入手、絵図は見当たらない、塔の由来の情報も皆無。 |
紀伊萬精院多宝塔 | 昭和20年 | 昭和20年7月9日・空襲・焼失。全く塔跡の痕跡はないが塔跡の推定は可能。 写真も全く入手できない。 |
谷中天王寺五重塔 | 昭和32年 | 放火・焼失。塔跡は整備保存。 |
紀伊長田観音寺三重塔 | 昭和39年 | 台風・倒壊。建立場所は確認可能、但し塔跡は全く消滅。再興計画はあるも、現状は多難と推測される。 |
播磨清水寺大塔 | 昭和40年 | 台風・大破・取壊(大正12年再興塔)。塔跡残存。 |
備前弘法寺多宝塔 | 昭和42年 | 焼失。塔跡残存。 |
山城妙満寺宝塔 | 昭和43年 | 寺院移転による取壊(移建できず)。旧地の寺跡そのものが消滅。 |
摂津忉利天上寺多宝塔 | 昭和51年 | 焼失。塔跡残存。 |
近江新善光寺三重塔 | 昭和58年 | 明治30年頃の建立塔婆。破損のため昭和58年取壊。跡地は保育園となり塔跡は消滅。 |
備前高野山吉備別院二重塔 | 昭和末期〜平成初頭 | 大正末期〜昭和初頭建立、昭和60年裏山崩壊で吉備別院大破、その後塔婆取壊。 |
摂津妙見寺二重塔 | 平成7年 | 阪神淡路大震災で消滅と思われる。情報未収集。摂津妙見寺現況 神戸市東灘区魚崎南町 3-17-18 |
池上本門寺奉安塔 | 平成8年 | 昭和23年大堂跡に宗祖奉安塔を建立、同37年移転、平成8年取壊、同15年宝輪再興。 |
新見井倉洞五重小塔 | 平成13年頃 | 2000年〜2003年頃、腐朽もしくは災害も加わり倒壊したものと推定される。 |
旧大和白豪寺多宝塔 | 平成14年 | 白毫寺に塔跡残存。移築先(井植山荘)で山火事・類焼。井植山荘跡地には相輪のみ再興。 |
尾張妙法寺多宝塔 | 平成17年頃 | 平成16年(2004)撮影画像が存在し、跡地にはマンションが平成20年(2008)4月に竣工というので、取壊し時期は平成16年から平成18年頃と推定される。 |
出雲千手院未完多宝塔 | 平成18年 | 明治27.28年戦役記念に建立。ただし未完のまま放置。2006年取壊、一部の残材(組物)が美作玉泉寺本堂に転用されたものと思われる。 |
陸奥赤倉山三重塔 | 平成20年迄 | 平成20年10月には確実に取壊されたものと思われる。三重塔の詳細不詳。 |
摂津千日前竹林寺二重塔 | 平成20年 | 平成20年天王寺区に移転のため、千日前にあった二重塔は取壊。 |
消息が茫として不明 | ||
大和龍田本宮多宝塔 | *** | 本多宝塔は明治5年までその存在が確認できるも、その後は茫としてその消息を知ることができない。 |
近世喪失塔婆(参考) | ||
Bernheimer gardens pagoda | *** | アメリカ、Hollywood Bernheimer邸には二重塔と三重塔があり、二重塔のみ現存する。 Pacific Palisades Bernheimer邸には三重塔と円形三層堂があったが、破壊消滅する。 |
日本絹業博覧会第二会場(湊川公園)多宝塔 | *** | 詳細不詳。 |
70年大阪万博 古河館パビリオン | 昭和45年 | 東大寺七重塔を再現(外観のみ):大坂万博修了とともに取壊し。 |