豊 前 求 菩 提 山 護 国 寺 ニ 層 塔 跡

豊前求菩提山ニ層塔(求菩提山護国寺多宝塔)跡

求菩提山ニ層塔・求菩提山護国寺ニ層塔

◆明治33年求菩提山護国寺ニ層塔(多宝塔)台風により倒壊する。

「求菩提山二階之塔・1/10図」(十分之壱図)

この姿図は明治25年「塔」保存の準備がなされたということから、その準備段階で記録された姿図と思われる。(推測)
 ※いずれにせよ明治33年倒壊前の姿を描いた姿図であろう。
 ※明治25年、国宝指定の準備として、倒壊回避の当面の処置として内務省より金100円下賜。

2007/05/03「塔婆」様撮影:
 「求菩提山二階之塔・1/10 図」:左図拡大図

下重3間、上重2間のニ層塔(二重塔)で、多宝塔風の相輪を揚げる。
但し、相輪の九輪は四輪(理由不明)とする。
縁は4間とする。
 ※下重3間・縁4間であるのは、塔跡の発掘調査の礎石状況と一致する。

基本的に唐様を主体とした意匠と思われる。
上下とも組物は詰組とし、軸部に木鼻を用いる。
下重は珍しく3間とも扉とし、扉は桟唐戸を用いる。
上重の柱間は2間とも、花頭窓とも思われる窓とする。
組物は、下重3手先、上重4手先と思われる。

勾欄は通常の組勾欄を用いる。
屋根は良く分からないが、板葺とも思われる。

求菩提山多宝塔図

2007/05/03「塔婆」様撮影:
 「求菩提山多宝塔図」:左図拡大図

図は江戸期のものと推定される。絵多少デフォルメされた絵図である。

下重が一見4間のように見えるが、中央間は扉を嵌めた1間であり、下重は3間である。
(斗栱は3間分描かれ、右上書込みにも「横・入とも三間」と記される。)
縁は7間に描かれるが、これは塔跡の束石とは合致しない。
(縁束石は方4間である。)
 上重も3間に描かれる。
上述のように、下重も3間であるので、これは多宝塔の流れをひく「ニ層塔」ではなくて、層塔の流れをひく「二重塔」とも思われる。
しかし、相輪は層塔ではなくて多宝塔のそれを用いる。
 軸部あるいは尾垂木は唐様の意匠であるように描かれる。
斗栱も描画の調子から見ると唐様の雰囲気を示す。
屋根は萱葺か?。

高さは8間(14.56m)、縁3尺(91cm)四方とある。

求菩提山多宝塔図2:左図と同一図:「山伏まんだら」より
2012/01/20追加:
「豐щ&提山修驗文化攷」重松敏美著編、豊前市教育委員会、1969 など多くの著書に同一の「図」の掲載がある。

2012/05/19入手:
版木の所在は不明ながら、求菩提山多宝塔版画を入手する。
 求菩提山多宝塔版画:本人(s_minaga蔵)

求菩提山護国寺ニ層塔跡

2007/05/03「塔婆」様撮影:
 求菩提山ニ層塔跡:左図拡大図
 求菩提山塔跡礎石:心礎は写真上中央付近に 写る白↓を付した「貧弱な」礎石である。

通常、求菩提山護国寺塔は多宝塔と称するが、
明治33年倒壊の塔が、上の2図(「求菩提山二階之塔・1/10図」 、「求菩提山多宝塔図」)を見る限りでは、多宝塔ではなく、ニ層塔の形式であることはほぼ確実と思われる。

おそらく創建時の塔は多宝塔であったのであろうが、再興時に、理由は不明ながら、ニ層塔(二重塔)に形式が改められたものと推測される。

2012/05/19撮影:
護国寺講堂・多宝塔・中宮などはほぼ東面する。
 求菩提山二層塔跡10    求菩提山二層塔跡11    求菩提山二層塔跡12    求菩提山二層塔跡13    求菩提山二層塔跡14
 求菩提山二層塔跡15    求菩提山二層塔跡16
 求菩提山二層塔跡17:椽束石     求菩提山二層塔跡18:東側柱礎     求菩提山二層塔跡19    求菩提山二層塔跡20
 求菩提山二層塔跡21:正面基壇     求菩提山二層塔跡22:正面基壇     求菩提山二層塔跡23:南面基壇
 求菩提山二層塔跡24:北面基壇
 以下心礎
 求菩提山二層塔跡25    求菩提山二層塔跡26    求菩提山二層塔跡27    求菩提山二層塔跡28    求菩提山二層塔跡29

 求菩提山護国寺イメージ図:2003年豊前市教委「史蹟『求菩提山』整備基本計画 概要版」 より

求菩提山伽藍概要

求菩提山概要:
◆「求菩提山護国寺の発掘調査」棚田昭仁(「求菩提資料館ジャーナル 第17号」豊前市教育委員会、平成14年度 所収)より
  →無印及び▽印で表示する。
  → 求菩提資料館
2012/02/10追加:
◆「史跡求菩提山:求菩提山護国寺」豊前市教育委員会、2008(豊前市文化財調査報告書:第25集、求菩提山史跡整備事業に伴う文化財発掘調査報告書:1) より図版を追加 → 追加図版・記事はで表示する。

 求菩提山護国寺周辺図

▽伽藍は山門・食堂・常行堂・鐘楼・講堂・多宝塔・中宮の北山殿・鬼神社・仮殿などがあった。
これ等は東面した山腹を階段状に4段の平坦地とその両脇の1段低い平坦地を造成し建立される。
多宝塔はこの中で一番高い4段目の平坦地にある。最上部平坦面中央には北山殿があり、山道を登ると正面に相対することになる。
この北山殿に向かって右奥には納経塔があり、この右脇から上宮につづく鬼の磴が始まる。そして向かって左側(南)に多宝塔がある。▽
 求菩提山護国寺配置図:山門は仁王像を祀り、仁王門とも呼ばれる。山門西にある道を30mほど登った平坦地が食堂跡である。
食堂跡現状は木が林立し、建物基壇などは確認できない。

▽護国寺伽藍のほとんどは明治維新前まで存続し、多宝塔は、維新後も残り、明治33年台風により倒壊と云う。▽
 ※塔の扉6枚は残存する。(現在求菩提資料館で保存)
   護国寺多宝塔扉:4枚 <6枚のうち>
     2012/05/19:以前は展示されていたが、現在は資料館保存庫に眠る。展示予定はなし。
 ※塔の心柱は倒壊後運び出され、鬼神社に収納・保管と云う。
 ※2012/02/10追加:
  多宝塔棟札:「修験の秘宝 求菩提」求菩提資料館、昭和59年 より
   求菩提山多宝塔棟札:多寳塔上■之事(■の漢字は手持ちの辞典になし)、年紀は天保11歳(1840)
    ◎明治33年まで存続した多宝塔(二重塔)は天保11年の再営と推定される。
     本棟札はおそらく求菩提資料館に蔵するものと思われるも未確認。

▽塔跡発掘前の状況(表面観察):
塔基壇正面(東側)は長方形石材を用いた2段の基壇化粧石がほぼ完全に残る。
基壇の両側では2段目の石材はみられず、1段目で全体の1/3程度が原形を留める。
後背面(西側)では斜面から流れ落ちた赤土の堆積もあり、何も観察できない。
礎石は地表に露出し、正面3間の一列とその両側から延びた1間ぶんの礎石と中央に塔心礎の計7個が残る。▽

▽塔跡発掘調査結果:
基壇後背部(西側)の基壇化粧石は失われているものの、裏込めあるいは根石と思われる列石が確認される。
その結果、基壇の規模は一辺8.6mの方形基壇であることが確定する。
礎石については、南側の正面手前から2間目の根石を確認、他の礎石の根石等は確認ができなかった。
原位置に残されていた礎石からは塔心礎を除き、中央付近に細かい線刻で十字が刻まれているのが発見される。
この十字の線は縦横それぞれに並ぶ他の礎石に刻まれた線と同一直線上に並ぶもので、恐らく柱の中心位置を示すものと推定される。
これと同じ十字を付けた石が基壇上の北側中央付近に転がっているのがみられる。
以上の結果、塔は方3間の建築で、正面中央間が心々1.95m、両脇間心々1.6m、一辺4,15mと確認される。
縁は方4間に並び、正面の脇間が1.9m、中央2間はそれぞれ1.8mを測る。
塔心礎と称する礎石は、厚さが12cm前後の板石であり、非常に貧弱な礎石である。
果たしてこの礎石が心礎かどうかは疑問があるが、崩壊後に塔の心柱を運び出し鬼神社に収め、今も保管していると云う(氏子の西尾香槻氏談)ことや、さらに
残存する「求菩提山二階之塔・1/10(明治25年頃か?)」や「求菩提山多宝塔図」(江戸期か?)の姿絵(前出)を見る限り、この塔は多宝塔ではなくて、ニ層塔の形式であることはほぼ確実と思われ、明治33年まで存続した塔には心柱があり、従って心礎が残存することには矛盾はない。(※塔には心柱があったと思われる。)▽
2012/05/19:鬼神社にあると云う心柱の確認を失念する。

▽「恐らく、この塔心礎は創建時には存在しなかったもので、再建時に新たに加えられたものではないだろうか。他に礎石に刻まれた十字の線刻もこの再建時に加えられたもの(江戸時代か)かもしれない。時期としては、まず創建は、頼厳上人以前の求菩提については史料的裏付けがないことから、最も古く考えて平安後期だろう。創建時には本来の多宝塔の形式で建てられていた可能性もある。それが再建された際、二重の層塔となったが、以前より言い習わしてきたとおり、そこにある塔を多宝塔と呼び続けたとも考えられないだろうか。」▽
 多宝塔跡実測図
 多宝塔跡調査前1:東から     多宝塔跡調査後1:東から     多宝塔跡調査前2:南から
 多宝塔跡調査後2:南から     多宝塔化粧基壇:調査後

山門跡:
礎石(方形切石で中央に方形枘を穿つ)3個が遺存する。規模は5.3×9mを測る。
常行堂跡:
基壇規模は8m四方、正面・右側・左側に野面積の基壇石垣列を残す。礎石は3個ほどを確認、それには多宝塔跡礎石と同じ「+」の線刻を持つ。

「別冊週間読売 日本の霊場」1976.5(昭和51年5月) より
 画像:求菩提山案内図〜求菩提山安浄寺跡は上記「別冊週間読売 日本の霊場」 より

 求菩提山案内図:求菩提山は上谷・中谷・下谷・杉谷・西谷・南谷・北谷の7坊中に分かれ、「一山五百坊」と云う。
岩屋氏・広沢氏・宮部氏とあるのが、当時(昭和51年)残っていた3坊と思われる。
当時は坊跡が点在し、荒廃した坊舎が多く残っていたと思われる。  ※求菩提山内略図:「山伏まんだら」より(下掲)
 求菩提山遠望:標高782m、天狗の山と云われた。

 求菩提山坊:室町期には500坊と称されるも、今は3坊(昭和51年当時)残るのみとなる。
平成13年に最後の住人が下山し、ついに無住の山となる。
 求菩提山普賢窟:五窟の一つで、 大永7年(1527)に銅板法華経(国宝)が発掘される。

 求菩提山安浄寺跡: 安浄寺は求菩提山山伏の葬儀を一手に執り行っていた寺院と云う。

2012/05/19撮影:
 ◆求菩提地区概要図:平成22年豊前市教委「国指定史跡求菩提山保存管理計画」 より
 求菩提山山容     求菩提山八丁坂入口     八丁坂石仏:この坂には多くの石仏が祀られる。
坊中跡
 下谷鬼石坊跡1:右側      下谷鬼石坊跡2     下谷鬼石坊跡3
 以下坊名不明
 下谷坊舎跡1     下谷坊舎跡2     下谷坊舎跡3     下谷坊舎跡4     下谷坊舎跡5     下谷坊舎跡6
 下谷坊舎跡7     下谷坊舎跡8     下谷坊舎跡9     下谷坊舎跡10
 広沢氏邸:成圓坊は広沢宮司家とも記される。国玉神社の宮司邸であったのであろうか。この屋敷は常に住居している様子ではなく、
 宮司は現在東京在住との情報もあり、であるならば、この坊跡には住居していない様子と符合する。
 下谷成圓坊跡1     下谷成圓坊跡2     下谷成圓坊跡3
 下谷浄賢坊跡1     下谷浄賢坊跡2     下谷浄賢坊跡3
 杉谷座主坊路      杉谷座主坊跡1:入口    杉谷座主坊跡2     杉谷座主坊跡3     杉谷座主坊跡4
 杉谷座主坊跡5     杉谷座主坊跡6
 杉谷禊場跡1       杉谷禊場跡2
 以下坊名不明
 杉谷坊舎跡1     杉谷坊舎跡2     杉谷坊舎跡3     杉谷坊舎跡4     杉谷坊舎跡5     杉谷坊舎跡6
 杉谷坊舎跡7     杉谷坊舎跡8     杉谷坊舎跡9     杉谷坊舎跡10     杉谷坊舎跡11     杉谷坊舎跡12
 杉谷坊舎跡13     杉谷坊舎跡14     杉谷坊舎跡15
 杉谷岩屋坊跡1     杉谷岩屋坊跡2     杉谷岩屋坊跡3     杉谷岩屋坊跡4     杉谷岩屋坊跡5     杉谷岩屋坊跡6
 杉谷安浄寺:求菩提山一山の菩提寺を務める寺院であった。
 杉谷安浄寺跡1     杉谷安浄寺跡2     杉谷安浄寺跡3     杉谷安浄寺跡4     杉谷安浄寺跡5
 杉谷毘沙門堂:平安期の毘沙門天立像を安置した。
 明治5年の神仏分離により照国社と改号し、堂宇は社殿に造替されるも、江戸期の材も残すと云う。
 杉谷毘沙門堂1     杉谷毘沙門堂2     杉谷毘沙門堂3
 以下坊名不明
 上谷坊舎跡1     上谷坊舎跡2     上谷坊舎跡3     上谷坊舎跡4

 求菩提山鳥居:山門前にある。元治元年(1864)の年紀がある。
 護国寺山門跡1     護国寺山門跡2     護国寺山門跡3:仁王門
 護国寺山門跡礎石1     護国寺山門跡礎石2
 護国寺常行堂跡1       護国寺常行堂跡2       護国寺常行堂跡3:常香堂と も綴る
 護国寺頼厳上人供養碑
 護国寺跡浮殿     護国寺講堂跡石階    護国寺講堂跡1:奥は社務所     護国寺講堂跡2    護国寺講堂跡3:左は鬼神社
 護国寺跡鬼神社
 護国寺跡中宮石階     護国寺跡中宮1     護国寺跡中宮2     護国寺跡中宮3
 求菩提山鬼の鐙1:850段と云う。      求菩提山鬼の鐙2     求菩提山鬼の鐙3
 上宮:かってはニ所権現と称する。白山権現(十一面観音)と地主権現(薬師如来)の二所権現が祀られる。
 護国寺跡上宮石階     護国寺跡上宮拝殿跡     護国寺跡上宮:手前は拝殿跡

 求菩提山大日窟      求菩提山普賢窟     求菩提山多聞窟     求菩提山吉祥窟     求菩提山阿弥陀窟
 以下求菩提資料館蔵
 求菩提山絵図版木
 大日窟大日如来:平安後期、金剛界大日如来と推定される。
 明治の神仏分離では多宝塔に投げ込まれ、以降愛宕社など転々とする。像の前膝は昭和43年鬼神社の床下から発見される。
 常行堂不動明王:江戸期、常行堂には千日行者が篭る。
 求菩提山頼厳坐像:鎌倉期
 胎蔵界大日如来坐像:南北朝期頃、個人蔵。
 天部立像その1:平安期、昭和35年山中の小屋に横積されていたと云う。
 天部立像その2:平安末期と推定、由緒不明。

 求菩提資料館付近に龍王院がある。近年の造立であろう。
 求菩提山千日回峰行満行の修験者の住坊であり、相輪を載せた単層圓堂の名称は不明、粗略な建物である。
 求菩提山龍王院1     求菩提山龍王院2     求菩提山龍王院3

2007/05/26追加:
求菩提山概要
  「修験の世界」村山修一、人文書院、1992 所収「求菩提山修験」
  「山伏まんだら 求菩提山修験遺跡にみる」NHKブックスC32、重松敏美、昭和61年 などによる
  2012/02/10追加:参考文献
   「歴史と浪漫の散歩道:豊前市文化財ガイドブック」豊前市教育委員会、平成14年
   「修験の秘宝 求菩提」求菩提資料館、昭和59年
   「求菩提資料館(常設展示図録)」求菩提資料館、平成14年
   「求菩提:祷・行・坊」求菩提資料館、平成元年

求菩提山の起源については史料がなく、正確なことは知りえない。
近世文書である「求菩提山縁起」求菩提山祐官坊祐瞬、享保12年(1728)では凡そ以下とされる。
 継体天皇20年(526)猛覚魔卜仙(もうかくまぼくせん)が開山
 慶雲元年(704)役行者の入山
 養老四年(720)行善和尚が隼人の乱の際、求菩提山で異敵調伏の祈祷を行い、その報賽として伽藍建立を勅許され護国寺が開山。
  行善は白山妙理権現影向の霊地を発見し、ここに神殿を造営する。
  (※但し、中野幡能氏は求菩提山を含む北部九州の白山権現は通常説かれる加賀白山権現ではなく、
    朝鮮の太白山小白山信仰である可能性が高いとする。)
  (※「求菩提山縁起」:「夫御嶽白山妙理大権現者日域男女元神伊弉冊尊也、
    養老四年御嶽霊石降臨座奉闚本地十一面観世音南方能化大菩薩為末代濁世発抜苦与楽誓変三十三身、以下略・・・」
    要するに、古いことは不明であるが、近世の縁起では、そもそも求菩提山は白山妙理大権現を祀った山であったと云うことであろう。)

保延6年(1140)頼厳、隆鑿等経筒を埋納(経筒など多くの遺物が発見される。)
康治元年(1142)平安末期、天台宗僧・頼厳によって再興、堂舎の再興、山王権現勧請、多宝塔などを造立。
 銅板法華経(国宝)が奉納。  →1)
 ※頼厳は藤原氏、宇佐辛島の出身と云われる。
弟子勢実和尚、多数の坊舎を営む。
碩徳(高僧か)は上谷識実院、杉谷清浄院、西谷福邦院、下谷五智院、南谷宝生院、北谷(坊舎名欠く)の六院を建立。
中世、護国寺には講堂(天文年中大内義隆建立)上宮・神殿・拝殿・多宝塔・鬼神社・中宮・北山殿(山王21社)・食堂・香屋堂・地蔵堂・祇御社があったとされる。さらに東西坂本、山上山下500坊が建立され、北部九州では英彦山と共に栄える。
鎌倉期は豊前宇都宮氏と室町期には大内氏と関係する。

中世の求菩提山は六谷と六院、28堂舎、外坊六峰(末寺)で構成される。
 六峰;
  ・飯盛山権現東光寺(近世では玉置権現):洞窟内に平安期の仏像が残り、これは明治の廃仏で投棄されたものと云われる。
  ・鬼ヶ州権現紅梅山松福寺(近世では釈迦岳権現)
  ・常在山権現如法寺:黄檗宗として近世に復興され現存、南北朝期には講堂・経堂・文殊堂・鐘楼・金剛殿ほか16坊
   (宝珠院・成就院・玉蔵院・中尾坊・南之坊・中之坊・中谷坊・正休坊・多木坊・少林庵・歓喜坊・東園坊・光明院・・・宝常坊・清源寺)
   があった。平安後期以降中世の仏像数体が伝来する。あるいは子院16、坊13とも云う。
   寺跡は発掘調査され。講堂跡・成就院跡の遺構などが発見される。
   (護摩場跡、白山権現社、窟群、座主館跡、寳池院跡、成就院跡、光明院跡なだがある。)
  ・松尾山権現医王寺:古代の伝説はあるが、中世の消息はほぼ不明、近世には上宮(白山三社)に拝殿・愛宕社・高祖堂、
   中宮(山王二十一社)に涅槃堂・講堂・鐘楼、下宮に渡神堂・観音堂・大般若経堂があり、安政5年には25坊、山伏32人、
   僧侶33人を数える。末寺は13を数える。あるいは36坊・109人とも伝える。
  ・両界山権現経読堂、
  ・宝勝山権現長福寺(山中に寺院跡あり)
 末寺としては以下が知られる。
  13末寺:
  ・檜原山正平寺(現存)白山権現を祀り山上に上宮、下に正平寺があり盛時は24坊があった、
   明治には桜本坊・亀石坊・山下坊・東之坊・成円坊・本蔵坊・法円坊・常行坊・円知坊の9坊になる。
    ※明治年中再三の火災によりほとんどを焼失、現講堂は明治35年再建という。
  ・定勝山長福寺(遺構あり)
  ・岩上山吉祥寺(遺構あり)
  ・竜泉山運水寺(所在不明・遺構ありとも)
  ・湯蔵山願成寺(遺構あり)
  ・宝光山寿東院(?)
  ・高鉄山竜福寺(遺構あり)
  ・青松山林応寺(?)
  ・永正山源正寺(廃寺)
  ・立源山源正寺(廃寺)
  ・上谷山岩高寺(廃寺)
  ・岩屋山泉水寺(遺構あり・重文千手院木造千手観音立像などを残す)
  ・八面山大日寺(廃寺)、八面山中腹に大日寺と6坊があったが、天正年中の兵火によって、山上の社殿を含めて、灰燼に帰す。

求菩提山組織:
座主の下に別当がありその下に聖体坊(僧侶)10坊があった。聖体坊の下に一山大衆(衆徒)と称する山伏が附属する。
座主不在の時代は別当北中坊が座主を代行した。
近世には小笠原氏の小倉入府により加護を受け、元禄以降基本的には小笠原氏から座主を向かえ、明治維新にいたる。
享保20年(1735)152坊、慶応4年宗門帳では本坊(有住)74、附属坊(預坊・名跡のみか?)217、人口305人と云う。
 2012/02/10追加:
 「英彦山・求菩提山仏教民俗資料緊急調査報告書」元興寺文化財研究所、1978 より
 明応3年(1494)求菩提山が聖護院に帰属する。この時28の長床が免許される。
 享保20年の坊調書には152坊がある。(座主、座主家来、俗家は含まず)
 慶応3年3月「求菩提山宗門帳」:天台出家8房、長床8坊、大衆坊57坊(計73坊)、以上73坊は実在坊、預坊(廃坊)は217坊を数える。
   ※参考:元和8年の坊と坊の構成  →2)
   ※求菩提山絵図:明和9年(1764)  →3)
   ※近世末期の求菩提山堂塔  →4)

文久元年(1861)小笠原系6代座主俊宥、孫娘の美也に豊後立石・木下家より座主職として養子(俊正)を迎える。
慶応2年(1866)俊正、座主拝任
慶応4年(1668)神仏分離令
 同年4月13日限り、千日行止方之事
 同年4月8日、花之座(誕生会)相止候事
 同年4月11日、講堂鰐口取除事、仏像仏器御除事
       上宮中宮鰐口弐面并仏像仏器経巻取除多宝塔ヱ相囲戸并〆仕候
 座主、山伏は還俗、座主は神職となり、三好久弥麿と改名。護国寺は廃寺、国玉神社に収奪される。上宮は白山沙理大菩薩を祀る。
明治5年 修験道廃止令<太政官第273号(布) 明治五年九月十五日>
座主家の小笠原家よりの給付150石は停止、山麓の田畑は殆ど人手に渡す。
座主家の金品借用:
  金 壱円五拾銭 三好久弥麿 抵当 帷子2枚、金 壱円九拾銭 三好久弥麿 太刀一腰、米 四升 三好於宮(美也) 浅黄嶋着物 等
明治15年 座主家は久弥麿、奥方美也、長女千里、次女ま津美の構成であった。
明治29年 長女逝去
明治33年 久弥麿逝去、この年多宝塔崩壊
明治36年 美也・ま津美、2月求菩提山下山、小倉の佐々木梅太郎氏(不詳)に寄留する。
昭和元年 戸数11戸
昭和35年 求菩提山は3坊となる。昭和61年、1坊となる。平成13年最後の住人が下山し、求菩提山は無住となる。

昭和49年求菩提山資料館建設
平成13年求菩提山国史跡指定される。

求菩提山現存建物:
いずれも近世のものであるが、以下の建造物が残る。
 上宮(神殿、拝殿は近年倒壊)、中宮、鬼神社、社務所、御旅所、毘沙門堂(愚かなことに豊照社などと称する)、愛宕社、岩屋坊、滝蔵坊、琴比羅社、吉祥窟、多聞窟
さらに、以下の遺跡の調査が進展している模様である。
 常行堂、山門、講堂(五間七間、大内義隆建立)、安浄寺、食堂、智性坊、氷室など。

2013/07/09追加:
○「國玉神社の神佛分離」伊東尾四郎氏報(「明治維新神佛分離資料」所収)
「求菩提山雑記」に記せる堂舎は次の通り。
 上宮 顯國霊神 白山大権現 高祖堂
 下宮 北山殿 山王21社 多宝塔 本尊釈迦如来 鬼神本社 講堂 本尊阿弥陀如来 薬師如来 観世音菩薩 十二神將 三十番神
 求名菩薩 経蔵 鐘楼 食堂 不動院 浮殿 山門 金毘羅宮 愛宕社 次郎坊社 毘沙門社
諸坊は次の通り。
 西之坊 智性坊 常秀坊 常達坊 賢秀坊 玉祥坊 成圓坊 頼徳坊 秀本坊 安養坊 壽泉坊 門文坊 西尾坊 光明坊 玉蔵坊
 傳秀坊 般若坊 岩屋坊 上石坊 橋本坊 寳巖坊 大門口坊 守寂坊 正覺坊 福乗坊 福善坊 能寛坊 城泰坊 什現坊 融寛坊
 浄賢坊 寶泉坊 東光坊 常本坊 瀧蔵坊 乗學坊 正善坊 海蔵坊 善陽坊 柏之坊 善住坊 峯之坊 両界坊 藤本坊 法城坊
 行泉坊 行光坊 浄境坊 祐満坊 真瀧坊 林光坊 道場坊 橋之坊 寂圓坊 願行坊
石造石碑類は谷に突き落とされたが、木佛は岩窟内に隠された。・・・
國玉神社には佛に関する遺物の現存するものが少なくない。
 ・・・木造大小数十・・・岩窟内に隠せしものを今は鬼神社の後方に保存している。
  求菩提山残存木佛:写真はその中の一部を撮影したもの


1)銅板法華経(国宝)
33枚一組で、両面に法華経を刻む。21.1×18cmの大きさ。銅板経は一括して銅筥に収める。
大永年中(1521-)坂口坊頼尊、求菩提山普賢窟から発見する。
以降、この法華経は多宝塔に収蔵、明治33年多宝塔崩壊、急遽宝物小屋を建てその中に納める。多宝塔崩壊などで銅筥の瓔珞などが欠落とされる。
昭和25年この法華経は盗難に逢う。捜査は難行したが、犯人は検挙・四散した銅板経は無事収集に成功する。
巻末には頼厳、六哲・勢実などの勧進僧の名前を刻す。年紀は康治元年(1142)
  求菩提山銅板法華経:巻末部分:「山伏まんだら」より
 2012/02/10追加:
 「求菩提:祷・行・坊」求菩提資料館、平成元年 より
  求菩提山銅板法華経経筥1
 「修験の秘宝 求菩提」求菩提資料館、昭和59年 より
  求菩提山銅板法華経経筥2     求菩提山銅板法華経2

元の行に戻る

2)元和8年(1622)の坊と坊の構成

坊 舎 坊持家数 構成人数 持馬数 . 坊 舎 坊持家数 構成人数 持馬数
北中坊(別当) 14 35 20 善汲坊
南ノ坊 11 21 浄源坊
門ノ坊 22 地蔵院
西尾坊 23 善林坊
西林坊 24 桜本坊
浄円坊 25 谷ノ坊
西ノ坊 26 坂口坊
角ノ坊 13 27 引地坊
東ノ坊 28 北西坊
10 行泉坊 29 北ノ坊
11 山下坊 30 汲泉坊
12 福善坊 12 31 手水坊
13 増立坊 32 大門口坊
14 中尾坊 33 中ノ坊
15 宝知坊 34 東谷坊
16 妙本坊 35 中西坊
17 奥ノ坊 . . . . .
18 行光坊 36 庵室分 110 216 21
19 大石坊 合計 . 243 459 56

元和8年の時点では、坊は多くの家を持ち、修験とその家族・使用人など多くの人数で構成され、なおかつ多くが馬を持つ。
これは、中世の一族郎党的な武装集団の側面を残しているものと考えられと云う。
 「山伏まんだら」より:
   ○杉谷に残る坊舎:おそらく岩屋坊と思われる。
2012/02/10追加:
○「求菩提」重松敏美、出版社失念、出版年失念 より
 求菩提山坊跡1     求菩提山坊跡2     求菩提山坊跡3     求菩提山坊跡4
何れも坊舎名不明、「近年まで残っていた坊跡、現在は2軒を残すのみとなっている(1967年)」との説明がある。
坊跡4は「山の主要な産物であったお茶は戦後まで栽培されていた(1953年)」との説明がある。本写真下には茶畑が写るもトリムして掲載。
○「歴史と浪漫の散歩道:豊前市文化財ガイドブック」豊前市教育委員会、平成14年 より
 求菩提山岩屋坊1
○「求菩提:祷・行・坊」求菩提資料館、平成元年 より
 求菩提山岩屋坊2:「無住、県文」と説明がある。
 求菩提山滝蔵坊:西谷坊中、「滝蔵坊の末裔が1軒残る」との説明がある。

元の行に戻る

3)求菩提山絵図:明和9年(1764)銘、版木は桜、昭和39年発見

求菩提山絵図:左図拡大図:明和元年(1764)
上宮、護法童子ニ堂、行者堂、山王社、鬼神社、奥院、多宝塔、講堂、食堂、常香堂、地蔵堂、大日堂、普賢堂、多聞堂、千手堂、阿弥陀堂、毘沙門堂、観音堂、愛宕社、次郎坊社、山神社などの堂舎がある。
「山伏まんだら」より、その他多くの著書に当図の掲載がある。

2012/05/19撮影:求菩提資料館蔵:上に掲載
求菩提山絵図版木
2012/05/19:版画を入手:
豊州求菩提山會圖:本人(s_minaga蔵)

 ◇護国寺伽藍平面図:「山伏まんだら」より
  ※「豐щ&提山修驗文化攷」に同一「図」の掲載がある。

 ◇求菩提山内略図:「山伏まんだら」より

 ◇求菩提山案内図:「別冊週間読売 日本の霊場」より(上掲)

2012/01/20追加:
「豐щ&提山修驗文化攷」重松敏美著編、豊前市教育委員会、1969 より
 ◇求菩提山内遺跡分布略図

2012/02/10追加:
 ◇求菩提山護国寺周辺図:「史跡求菩提山 :求菩提山護国寺」より(上掲)
 ◇求菩提山護国寺配置図:      同上

 ◇求菩提山案内図:求菩提資料館資料刊行会発行

元の行に戻る

4)近世末期の求菩提山堂塔

「求菩提山護国寺 諸堂記」:江戸期末 より:「山伏まんだら」より

上宮 神殿5間、拝殿5間板葺東面なり。内陣三重、両所権現本地安置。(本地十一面観音、薬師如来)
ニ体童子小社2宇 (護法童子)
高祖堂 9尺四面枌葺(そぎふき)、役行者尊、善妙ニ鬼安置(「修験の世界」 より、求菩提資料館蔵のこの像と推定)
中宮北山殿 神殿3間四面枌葺、拝殿5間3間板葺、山王廿一社安置
百太夫殿 小社、少彦名尊
厳嶋大明神 小社、市杵嶋姫尊
地蔵堂 小社
多宝塔 3間四面、二重九輪、本尊釈迦如来
天満宮 小社
鬼神殿 4間四面枌葺、五大尊安置、但此神者深秘、尊体なり
祇園社 小社、素戔嗚尊
講堂 5間7間茅葺、本尊弥陀、薬師、観音、十二神将、三十番神、求名菩薩、右天文年中大内義隆建立、焼失、再建
食堂 文殊菩薩、大黒天。右は天正年中焼亡之後仮リニ5間3間の草堂を建つ
神輿仮殿 2間3間茅葺、但祭礼之当日権現神輿之旅殿なり。右豊後木下家より示今寄付する所なり
香屋堂 2間3間茅葺、不動尊安置
弁財天 小社
大日窟 小社、大日如来安置
普賢窟 小社、石岩瀧大明神安置、明神と称号す
多聞窟 小社、毘沙門天
吉祥窟 小社、右千手観音安置
阿弥陀窟 2間に4尺、右阿弥陀如来
山門 2間に4間薄葺、右四天王、金剛力士安置
金毘羅宮 神殿1間四面、拝殿1間に1間半板葺、右金山彦命
毘沙門社 1間四面茅葺、右毘沙門天
愛宕社 神殿5尺四面枌葺、拝殿2間3間茅葺。十二天狗安置。大狗、右細川氏寄付
次郎坊社 神殿1間四面枌葺、拝殿2間3間茅葺、八天狗安置。右細川小笠原氏両氏  →八天狗像は<脚注>参照
山神社 神殿9尺四面茅葺、拝殿2間3間茅葺。大山祇命。右往古当山遥拝所にして亦産土神と崇敬する処なり

<脚注>:八天狗像は「修験の世界」より、求菩提資料館蔵

元の行に戻る

2012/01/20追加:
○「豐щ&提山修驗文化攷」重松敏美著編、豊前市教育委員会、1969 より

◆「明治元年の坊家について」・・・・・(括弧内は還俗名を示す)
  ※明治維新の時には下記63の坊舎・山伏が存続・確認できたものと思われる。
  ※一山は7坊中(集落)で構成される。7坊中:上谷坊中、杉谷坊中、南谷坊中、西谷坊中、中谷坊中、北谷坊中、下谷坊中

01.杉谷 求菩提山座主延寿王院俊政21歳(三好久弥麿)
02.下谷 宮司別当北中坊77歳(宇都宮能祭のち宇都宮北中)
03.南谷 奥之坊33歳(宇都宮相模のち宇都宮千別)
04.    浜宮別当(満松周防)
05.    大輪院(長野上野)
06.南谷 執行代智性坊競26歳(長野参河)
07.上谷 引地坊歓応34歳(大宮大和のち大宮東)
08.中谷 門之坊元昌39歳(大内淡路のち大内茂人のち大地茂人)
09.上谷 光明坊元式30歳(吉広壱岐のち吉広直記)
10.杉谷 西尾坊文能46歳(西尾右近のち西尾丹宮)
11.北谷 常達坊玄a45歳(榊原常陸のち榊原舒)
12.    玉蔵坊仙教(緒方左門)
13.南谷 秀本坊諄応31歳(進播磨のち進直人)
14.南谷 般若坊良善29歳(光永右門のち光永昇)
15.北谷 善行坊法寿40歳(渡辺数馬のち渡辺能尾)
16.杉谷 安浄寺(清水久馬のち清水呑海)
17.杉谷 岩屋坊善a20歳(岩屋織部のち岩屋守宮):杉谷に残る坊舎(「山伏まんだら」)、求菩提山岩屋坊1(「歴史と浪漫の散歩道 」)、
                                 求菩提山岩屋坊2(「求菩提:祷・行・坊」)・・・何れも上掲
18.杉谷 寿泉坊芳友35歳(緒方弾番のち緒方慶寿)
19.杉谷 上石坊釣成43歳(工藤遠江のち起動遠見)
20.杉谷 大門口坊養信38歳(藤井形馬のち藤井武江)
21.下谷 宝厳坊真了35歳(工藤伊織のち工藤例)
22.杉谷 橋本坊観養53歳(塩田丹後のち塩田丹吾)
23.杉谷 守静坊仙長46歳(松尾越後のち松尾守静)
24.西谷 福乗坊智祐46歳(福井越中のち福井佃)
25.西谷 正覚坊養仙49歳(吉本益城)
26.上谷 福善坊文芳41歳(緒方宮門のち緒方福善)
27.    能寛坊祐順33歳(佐藤此面のち佐藤安定)
28.    城泰坊伯応18歳(吉本右近のち吉本新)
29.杉谷 常秀坊尊寧41歳(常盤河内のち常盤甫)
30.下谷 什現坊大宮51歳(広沢斉亮のち広沢梁)
31.下谷 祐覚坊文宗38歳(結城大隅のち結城正生)
32.中谷 厳祐坊仙澄48歳(結城但馬のち西列)
33.下谷 西之坊円意48歳(広沢美濃のち広沢宮門)
34.上谷 39歳(福井阿波のち福井宝泉)
35.下谷 浄賢坊文仙31歳(広沢釆女のち広沢藤)
36.下谷 成円坊邦昌36歳(広沢安宅)
37.杉谷 東光坊徳善69歳(大賀蔵太)
38.南谷 常本坊能元39歳(佐々木大炊のち佐々木枝折)
39.西谷 滝蔵坊教順25歳(宮部隼人のち宮部朝来):求菩提山滝蔵坊(「求菩提:祷・行・坊」)・・・上掲 
40.南谷 正善坊清養40歳(進将監のち進正江)
41.西谷 柏之坊祐海27歳(塩田内記/源祐則のち塩田記内)
42.西谷 海蔵坊帰城30歳(海野上総のち海野正美)
43.下谷 善陽坊宗善53歳(弘吉志摩のち弘吉弘美)
44.西谷 乗覚坊良祐35歳(工藤因幡のち工藤正城)
45.西谷 頼徳坊亨運30歳(徳光出羽のち徳光亨)
46.杉谷 (坊名など不詳か)
47.    峯之坊弘安44歳(徳光日向のち徳光峯記)
48.杉谷 賢秀坊善珏41歳(盛井治郎のち盛井戸次)
49.    両界坊海伝41歳(木下大監のち木下界)
50.北谷 藤本坊真永50歳(藤本対馬のち藤本多満喜)
51.中谷 法城坊清竜51歳(西郷部のち五清竜)
52.北谷 行泉坊文a21歳(森永親正のち森永静)
53.中谷 行光坊元格21歳(西典礼のち西三行)
54.中谷 浄境坊海達52歳(立石隠岐のち立石浄境)
55.    願行坊長寿33歳(渡辺工のち渡辺勇)
56.北谷 林之坊文赫51歳(林讃岐のち林盛信)
57.北谷 真滝坊善寿35歳(佐々木丹波のち佐々木頼)
58.杉谷 安善坊養秀39歳(安永駿河のち安永晋)
59.    道場坊永尊39歳(林備後のち大賀渋江)
60.北谷 橋之坊祐寿43歳(徳光守衛)
61.    玉祥坊法雲(松尾伊豆のち松尾真澄)
62.北谷 55歳(その他は不詳か)
63.北谷 祐満坊伝清48歳(神池増美のち神池加解伊)


2006年以前作成:2013/07/09更新:ホームページ日本の塔婆