備  前  吉  備  別  院  二  重  塔

備前児島吉備別院(善光寺出張所)二重塔

備前吉備別院二重塔

備前児島吉備別院に二重塔が存在したが、昭和の終り頃か平成の初め頃、取壊されて今は存在しない。

2008/07/05作成:
吉備別院二重塔写真

備前吉備別院二重塔:左図拡大図
  「日本の塔総観(中)」中西亨、昭和42年11月 所収
    情報は吉備別院二重塔(昭和42年4月2日写)とあるのみで詳細不詳。

写真で判断すると形式は二重塔、RC造()、軸部・斗栱などははっきりとは分からないが、かなり省略すると推定。屋根桟瓦葺。相輪は特殊な形態をとる。
写真は背後の山腹(天神山)から撮影、塔の周囲は塀で囲み、北側に石柱の門が見えるが、この門は天神山石塔群に至る石階への門であったと思われる。

規模・高さ、塔の用途・本尊など不詳。

建築年代は「縁起」(下に掲載)の記述からおそらく大正末期・昭和初頭と推測される。

取壊は現地聞き取り・上掲載「縁起」の記述から昭和末期・平成初頭と推定される。

2010/11/21追加:()吉備別院現ご住職談;塔はRC造ではなく、木造である。

2010/11/21追加
吉備別院伽藍全景:吉備別院様ご提供

吉備別院伽藍全景:左図拡大図

昭和6年頃(推定)の吉備別院の伽藍全景が写る。
撮影時期は他の保存写真とあわせ見て、昭和6年の落慶直後もしくはその前後の頃の写真と思われる。
 ※縁起(下に掲載)では落慶は昭和6年と云う。
 ※建物記念碑の年紀は大正10年、善光寺出張所石碑の年紀は昭和5年、吉備別院石碑は昭和6年竣工の年紀がある。

伽藍は天神山を背景に南面する。恐らく2〜3段の壇を造成し、その壇上に堂宇を配置したような印象を受ける。
二重塔・本堂を除き、堂塔の名称は明らかでないが、仮称を含めて、左から
二重塔・庫裏(仮)・高燈籠(仮)・重層本堂・寺務所(仮)・客殿(仮)<寺務所の手前、現存建物>・寄棟高層建物(仮)・五重宿所(仮)<入母屋造>
などが並ぶ。
2012/07/02追加:
高燈籠(仮)は鐘楼と判明する。<下に掲載の吉備別院鐘楼の項を参照>

伽藍の前面は田畑であり、1本の南北参道がある。
 ※上の写真に写る田畑は、現在では住宅及び道路となり、この当時の面影は全くない。
吉備別院現ご住職談;
戦前には多くの泊り掛けの参詣者で賑わう。また戦後直後には戦地からの復員者を受け入れる。
 (仮称・五重宿所などは、戦前には参詣者の宿泊の便に供し、戦後は多くの復員者の仮宿となると云う。)
2010/11/14撮影:
 吉備別院二重塔跡付近: 二重塔があったと推定される付近を南東から撮影。
 吉備別院前南北道:上の「吉備別院伽藍全景」の中央に写る吉備別院前南北参詣道の名残りと推定される。

2010/11/21追加:
信州善光寺大本願分身安置所二重塔(絵葉書):「Y」氏ご提供
 絵葉書発行年代は大正7年〜昭和7年(「Y」氏推定)

信州善光寺大本願分身安置所二重塔:左図拡大図

発行年代は大正7年〜昭和7年(「Y」氏推定)
写真には新築である雰囲気が漂い、上に掲載の「吉備別院伽藍全景」の塔付近の様子や塀の左側に写る畑などを考慮すれば、吉備別院落慶直後前後の撮影であることはほぼ間違いないであろう。
であるならば、昭和6年前後の撮影ということになる。
これは「Y」氏推定の発行年に合致する。

絵葉書にある「信州善光寺大本願分身安置所」とは吉備別院のことである。
 ※信州善光寺出張所碑:下に掲載、現在も吉備物院の旧地に残る。
 つまり吉備別院は善光寺出張所であった。
 ※吉備別院は通称「善光寺さん」と呼ばれていた。(吉備別院ご住職談)
撮影の方向は二重塔の南東から撮影、上に掲載の「吉備別院伽藍全景」で写る瓦葺練塀、塔石積基壇、右端中央には庫裏(仮)の特徴的な屋根の一部、背後には天神山などが写る。
塔の姿は勿論、周囲の状況も「吉備別院伽藍全景」と完璧に合致する。

塔は木造で、石積基壇の上に建つ。上下重とも方3間、斗栱は省略、軒下は漆喰塗りと思われる。
屋根荷重を支えるため上下重とも屋根四隅に金属製と思われる細い支柱を建てる。屋根桟瓦葺。
相輪は独自の形式か。

2012/07/02追加:
吉備別院鐘楼:絵葉書

 吉備別院鐘楼:絵葉書:左図拡大図
この鐘楼は異様に高い袴腰を持つ異形な鐘楼である。その異形は一見高燈籠を思わせる。

下に写る石碑の銘ははっきりとは判別できないが、朧気な文字の形や碑の形状などから、
ほぼ間違いなく下に掲載する「建築記念碑」であろう。
下に掲載の「建築記念碑」
 建築記念碑その1:碑の背後にある民家の所に写真の鐘楼があったのであろう。
 建築記念碑その2
 門柱(一対の内の西側):中央右に写るのが建築記念碑

備前高野山吉備別院概要

2008/07/05作成:
「高野山真言宗備前お寺めぐり」高野山真言宗備前宗務支所、昭和63年 に以下の記載がある。
高野山吉備別院、本尊阿弥陀如来、住所倉敷市児島赤崎1-13-8、住職松本光韶
縁起の記載がある。(全文は以下の通り)
「岡山県児島郡赤碕村の住人福田嘉平治つねに三宝に帰依し信仰の志深く、一奇なる哉、暗夜に光明あり、天高く棚曳く紫雲に乗り、気高き女臈の御姿現れ「我れこれより東南百里の地にある阿弥陀如来なり、願は西方の地を撰み遷し衆生済度を尽し度し」と仰せらる。
三男藤吉家を襲ぎ、志を奉じて高野山に詣で、高祖の廟を拝し、本山を訪ね調査を請めたるに果たして紀州那賀郡安楽川に阿弥陀寺と称する古刹あり廃頽に帰せるを、藤吉、本山並びに県知事に遷寺を出願許可を得て、赤崎天神山の霊地を拓き、大正9年10月3日起工、昭和6年2月28日落成、茲に福田嘉平治の祈願成就、併るに昭和60年6月29日〜30日の大雨により裏山大崩落、本堂庫裏大破、赤碕1127番地の現地に遷寺現在に至る。」
 以上によれば、福田嘉平治が阿弥陀如来を感得し、三男藤吉(家を襲ぐ)が福田嘉平治の志を継ぎ、廃頽していた紀伊那賀郡安楽川阿弥陀寺を当地天神山(児島赤崎3-4-1)に遷し、大正9年〜昭和6年に吉備別院を造営する。
昭和60年裏山崩落大破、児島赤崎1-13-8(松本邸)に遷寺する。この時の住職は松本光韶と云う。

2010/11/21追加: 吉備別院現ご住職談などによる
 松本光親師(三男藤吉)は大正9年から昭和6年落慶まで、吉備別院の造営に力を尽す。
 また光親師は松本光憲(二男)を後継と定め、薫育するも、昭和20年5月戦死<墓碑銘による>。
 昭和21年1月光親(俗名藤吉)師遷化・享年86歳<墓碑銘による>。
 松本光韶師後継す。昭和60年直後に遷寺する。
吉備別院は赤崎の地に現存する。
仏間には遷座した善光寺三尊立像、ほかに阿弥陀立像3躯、如意輪観音(と勝手に判断)坐像、弘法大師像、観音立像、不動明王立像、多宝小塔1基を祀る。
善光寺三尊立像は本尊であり、信濃善光寺の廃寺になったどこかの末寺に祀っていた像で、それを譲りうけて、吉備別院に安置と云う。

2010/11/21追加:
 2008/06/28に現地にて聞き取り調査、2010/11/14吉備別院現ご住職に面談

2008/06/28の現地聞き取りは以下の通りであるが、一部誤解や不適切な点もある。
従って、2008/06/28の聞き取り結果はあくまで付近の人の認識であり、必ずしも事実であるとは限らない。
吉備別院・二重塔に関する現地聞き取り(以下の通り)
1)二重塔はもう無い。おおよそ20年くらい前に取壊された。
 ※但し20年くらい前(昭和の終り頃か平成の初め頃)とはかなり大雑把と思われる。
 ※近所のかなりの年輩の方でも、塔のあったこと、取壊しの時期、塔のあった位置、吉備別院という寺院について、
  既にかなり曖昧な記憶になっている印象がある。(聞く人によってかなりのバラツキがある。)
2)この地区に土着の人、さらに塔のあった位置から道路を隔てて正面の家(塔の南)の方の証言があり、塔の位置はほぼ確定出来る。
3)塔の取壊理由:塔のあったすぐ北側の家やすぐ南側の家などから(この地の吉備別院が荒廃し)倒壊したら危険である
 との声があり、(立派なもので)勿体ないが、取壊した。
 ※上掲載「縁起」では昭和60年裏山大崩落があり、その影響かとも思われる。
 なを、取壊しは重機で行った。
4)取壊し直後は更地であったが、その東側にアパートが建ち、塔の跡地は何時の間にか藪地となり跡地に入ることは出来ない。
 ※事実三方が住居・・北と南は民家・東はアパート・・に囲まれ、西は藪であり、立入る隙間も無く、
  辛うじて接近して見ると、鬱蒼とした藪地で普通では踏み込める状況ではないと思われる。
5)二重塔があった頃は真裏(北)の山頂近くにある供養塔(墓碑)群に通じる地下の道があった。
 ※子供の頃の記憶のようで若干意味不明である。
 おそらく、二重塔附近が地下で、そこから山腹の参道は石階であったと推測される、
 現在山頂の供養塔群から下に降りる急な石階が残る、この石階は途中から突然崖で途絶する。
6)吉備別院は善光寺如来を祀っていた。寺院がなくなり、善光寺如来は善光寺にお帰りになった。
 ※善光寺との関係は唐突であり、この意味は良くわからない。
7)松本不動産は多くの墓地を持っている。松本不動産が二重塔を持っていた。松本不動産が吉備別院の本宅である。
8)<吉備別院は赤崎の地に遷寺したことは一般には広く知られていなかったと思われるため>、この項は削除。

上記の聞き取りに関係する、吉備別院現ご住職談は以下のとおりである。
3)の塔の取壊理由について
塔は木造であり、雨漏りによる老朽化が進む。修理を検討するも修理には多大な費用が必要であり、諸般の事情により修理を断念。
やむを得ず取壊す。
5)に関連すると思われるが、本堂(と思われるが、二重塔であるかも分からない)下には「戒壇廻り」があった。
「地下の道」云々はおそらく「戒壇廻り」の記憶と思われる。
6)吉備別院は一般的には「善光寺さん」と呼ばれていた。
「善光寺さん」の本尊は善光寺阿弥陀三尊立像である。このご本尊は赤崎の現吉備別院に遷座し、今も祀られている。
であるから、信濃の善光寺に帰ったというのは事実ではない。
 ※善光寺阿弥陀三尊立像:大きさは等身大で、おそらく木造金箔、本堂倒壊時には本像も前に倒れる。
 なお、本像はもとは廃寺となった善光寺末寺の像であったというから、少なくとも近世以前の像であろう。
7)墓地や二重塔は吉備別院所有であり、事実誤認である。

吉備別院1/25000の地形図:2008/07/05作成

吉備別院1/25000の地形図:左図広域図

中央寺院記号:廃吉備別院、西:文殊院、東南:清楽寺。

吉備別院すぐ手前左に「高塔」の記号がある。この「高塔」は吉備別院二重塔と推定される。2008年最新地図にも残る。

同じく吉備別院すぐ手前右に「記念碑」の記号がある。この記号は吉備別院名号碑(高野山吉備別院石碑)と思われる。

高野山吉備別院現況:2008/07/05作成 ・・・2010/11/14:庫裏は仮称客殿と呼称する。

2008/06/28撮影画像:
(01)高野山吉備別院石碑:上掲吉備別院1/25000の地形図の「記念碑」の記号に相当する。
(02)善光寺出張所碑前:左は二重塔跡、右は吉備別院 客殿(仮称)、直登すれば墓地及び石製塔婆群に至る。
(03)信州善光寺出張所碑:この石碑は「(02)善光寺出張所碑前」の中央左にある蘇鉄の中にほぼ埋もれて建つ。 ・・・2010/11/14画像入替
    2010/11/14撮影:善光寺出張所碑年紀:年紀は昭和5年6月建立とある。
(04)建築記念碑その1:「(03)信州善光寺出張所碑」の一段上に建つ、左に「昭和12年6月・・」と刻す石柱が見える。
(05)建築記念碑その2:大正10年8月の年紀がある。吉備別院そのものあるいは本堂、二重塔などの建築紀念と解釈される。
(06)善光寺出張所碑横:左はアパートで左奥に二重塔跡がある。 このアパートが二重塔に続く参道であったと推定される。
(07)吉備別院二重塔跡1:アパート裏(北)で、写真中央の藪地が二重塔跡と推定される。中央は人の身の丈程の窪地で組み込みは不可。
(08)吉備別院二重塔跡2:南の道路から撮影、中央右の建物がアパート、写真中央の竹薮が二重跡で、取壊前まではここに塔が立つ。
(09)吉備別院二重塔跡3:南の道路から撮影、中央右の建物がアパート、手前ほ平屋と後に「ヘ」の字に見える平屋の間に塔はあった。
(10)天神山石塔群1:中央に 大型の五重石塔、左右には巨大な十三重塔5基がある。各々は墓標・供養塔と思われる。
(11)天神山石塔群2:石製五重塔、詳細は未確認、墓標あるいは墓域と推定される。石塔群東には太宰天神社の祠がある。
(12)天神山石塔群3:未観察のため詳細は不明、 内1基は昭和11年の年紀がある。
(13)吉備別院二重塔跡4:天神山中腹から南方を撮影、中央右二階建 ・屋根茶色の建物がアパート、その右藪地が二重塔跡。
(14)吉備別院庫裏俯瞰:天神山(北)から撮影、中央建物が庫裏、左上建物は清楽寺。 ・・・2010/11/14:庫裏は仮称客殿
(15)吉備別院庫裏:完全に廃屋で相当荒れている、自然崩壊を待つのみの状態 である。・・・同上
(16)この項削除
2010/11/14撮影:
(17)門柱(一対の内の西側):建築記念碑の東に一対の石製門柱が残る。昭和12年6月の年紀を刻む。 右端は建築記念碑。

2010/11/21追加:
以上のように吉備別院跡にはわずかに
仮称廃客殿、松本家墓所を含む墓地、建築記念石碑、善光寺出張所石碑、吉備別院石碑、石製門柱一対
の遺構を残すのみである。
なお、4基の石碑類はそれぞれ以下の年紀を刻み、草創時の年代を偲ぶことができる。
建築記念石碑:大正10年8月の年紀。
善光寺出張所石碑:昭和5年6月建立とある。
高野山吉備別院石碑:当山竣工記念昭和6年5月と刻む。
石製門柱:昭和12年6月とある。 ・・・・・何れも上に掲載写真。


※この写真は備前吉備別院と何の関係もありません。


2008/07/05作成:2012/07/02更新:ホームページ日本の塔婆