大  和  唐  招  提  寺  五  重  塔  ・  心  礎

大和唐招提寺五重塔・唐招提寺心礎(亡失)

大和唐招提寺五重塔概要

東塔の創建は弘仁元年(810)、平城天皇の御願によると云う。(「日本略記」)
(岩波新書841「奈良の寺」名文研編、2003 では「平城上皇」という。)
 ※西塔の存在は明確でない。(西塔は建立されなかったとの説が有力である。)

2022/05/20撮影:
○奈良市役所展示の平城宮跡復元模型
 →平城宮跡復元模型:平城宮での姿が再現される。

2007/01//31追加:「大和の古塔」
 享和2年(1802)まで東塔は創建時のまま存在する。(※しかし慶長元年倒壊とも云う。下掲の「日本の木造塔跡」を参照)
塔跡は金堂から東して、鎮守社に至る右手に雑木の生えた土壇が水田の中に凸出しているところである。
享和2年雷火により焼失、その様子は奈良井上町年寄が以下のように記録。
「享和2壬戌年6月11日八ツ前頃、唐招提寺五重塔へ雷火二重めゑ落、大塔火難相成、戌亥之方よりもへ出候間、既其日は当所は雨厳敷ふり来り、大ゆう立ニ有之候。然るに五條辺は、雷厳敷、雨仕切ニふり来り、その中より大塔燃立候共、寺中ニも□□雨厳敷、雷之音烈ク罷有ハ、寺中□ニも大塔燃るちうしん有之、夫より諸堂迫々火消し人足手ク張被成候て、諸堂は別条無之候段、塔ハ程無焼申事ニ候。其辺鎮守御社、是共焼失御座候。分合成行儀、其様子ヲあらゝ記し残し置候者也。
 一 五重大塔 右の立物焼失
 一 輪蓋竜王社 同 断
 一 水鏡天神社 同 断 外ニ、三社之宮有之様子承り、鳥居は少々焼残り有候」
塔跡は明治まで礎石を残すと云うも、今は見えず。
「招提千歳伝記」(元禄14年):高さ12丈(36.4m)。(平面規模の記載はなし)、塔内には四仏を配すると云う。

大和名所圖會:寛政3年(1791)刊より:
 唐招提寺五重塔(部分図): 寛政3年には五重塔が存在、直後の享和2年(1802)雷火により焼失。
 唐招提寺五重塔2(部分図)

唐招提寺伽藍図:
元禄9年(1696)再興の戒壇院が描かれているため、それ以降の制作と思われる。
東塔の付箋には「享和3年 月 日雷火ニテ焼失」とあるが、他の史料では「享和2年」とする。

唐招提寺伽藍図:下図拡大図:「古図にみる日本の建築」

2005/11/28追加:
○「唐招提寺」森本孝順、学生社、1972 1998.(上記改定版) より:
 この巨石(東塔心礎)の搬出について:
門前の当時80歳以上の古老から聞き取りをしたが、一人の老婆のみ「鎮守社の前に大きな礎石がころがしてあった」というだけで、他の人は知らないとのことであった。
心礎以外のその他の礎石は不明。(講堂前にならぶ礎石の可能性もあるかも知れない?。)
創建塔は大同5年(810)建立、高さ12丈、五層の塔であった。(日本紀略」
文化(享和)焼失塔の再興には多大な苦心が払われるが、維新の変革で再興の計画は潰えてしまうと伝える。
文化元年(享和)の焼失時、長老宝静は心柱の焼け残りで鑑真和上像(高さ25cm・厨子入)を刻み、縁の寺院に納めたという。
 (像裏に由来を墨書)3躯現存すると云う。
 2011/08/31追加:
 上記の3躯の内1躯は山城法金剛院にある。
  山城法金剛院什宝:「鑑真和尚像(江戸期)唐招提寺東塔真柱で作る」とある。(山城法金剛院

なお戒壇付近に西塔と言われる所があるが、明瞭な記録を欠く。
 ※この附近(西塔)の土地所有者は寺院からの要請にも関わらず未だに返却を拒否していると云う。

唐招提寺東塔跡

2007/12/31追加:
「日本の木造塔跡」:塔跡は土壇を残すのみで、これも崩れている。一辺はおよそ11.8〜11.2mで礎石は一つも残らない。
慶長元年(1596)の地震で伽藍は甚大な被害を受け、塔も倒壊、しかし塔はまもなく再建される。
享保2年(1717)雷火により焼失。(※焼失は享和2壬戌年といわれ、単に享和と享保の取り違えであろう。)
○2011/08/31追加:2011/08/23撮影:
明瞭な土壇を残す。調査が行われていないので詳細は不明。
上掲の「大和名所圖會」では石積基壇、「唐招提寺伽藍図」では壇上積基壇のように見えるが、現状は荒れた土壇のみが残り、その面影はない。また土壇上は潅木が茂るに任せるという現状である。
現在(2011/08)東塔跡・水鏡天神社は拝観料で拝観できる範囲外(柵及び閂門の外にある)に位置するので、東塔跡を訪れるには、許可を得て門の閂をはずして訪れる必要があることに注意する必要がある。
 唐招提寺東塔跡1:北西角と北面    唐招提寺東塔跡2:北西角      唐招提寺東塔跡3:東面と北西角
 唐招提寺東塔跡4:東面          唐招提寺東塔跡5:北面        唐招提寺東塔跡6:南面
 唐招提寺水鏡天神1:写真手前・向かって右手の叢林が東塔跡         唐招提寺水鏡天神2:瑞垣内

2011/08/31追加:2011/08/23撮影:
唐招提寺伝東塔礎石(唐招提寺境内放置礎石)

本坊練塀西側外・醍醐井戸脇に4個の柱座を造り出し、更にその中央に出枘を持つ礎石が放置される。
寺僧曰、「この礎石は以前には講堂前に置かれていた礎石である。この礎石は東塔跡から掘り出したものと聞いている。」
また、講堂前に並ぶ礎石は東塔礎石の可能性があると指摘する文献もあり、確証はないが、この礎石は「伝東塔礎石」としておこう。
 唐招提寺伝東塔礎石1     唐招提寺伝東塔礎石2     唐招提寺伝東塔礎石3
 礎石3の写真の中央に写る礎石の実測値は以下の通り。
大きさは凡そ124×85cm高さは40cm、径82/94cm高さ12cmの柱座を造り出し、その中央に径22cmの出枘がある。
柱座は正円ではなく楕円形を呈する。

唐招提寺東塔心礎

 ※残念ながら、唐招提寺東塔心礎は破壊され永久に姿を消したと思われる。

2003/01/初旬追加:「X」氏情報:
 「唐招提寺心礎は椿山荘に移され、プールに残存する。 (プールの水飲に加工・転用したものと思われる。)」

しばらくは以上の状態であったと思われるも、(以下の情報のように)塔心礎は、破壊され消滅する。

 椿山荘受付の談:「かなり前にプールを壊した際に移動しようとしたところ、礎石も壊れてしまった。もともと火災によって石が脆くなっていたところにプールで使用した際に穴を穿って水飲みか何かに加工した。」
なお、心礎の所在について唐招提寺の方からの問い合わせもあったと云う。

2005/11/28追加:
当サイトの読者から以下の情報提供を受ける。;
 「東京椿山荘にあった唐招提寺の東塔は学生社の唐招提寺編『唐招提寺』に記載がある。
 また椿山荘提供の礎石の写真の掲載もある。」     →東京椿山荘
   ↓
 「唐招提寺」森本孝順、学生社、1972 1998.(上記改定版) より:

東塔は文化元年(1804)6月13日雷火で焼失。
塔の檀の土地も、例にもれず、明治維新の上地令で官没され旧士族に払下げられる。その時分に礎石は全部掘り出され売却されたと思われ礎石は一個も 残らない。
昭和24年さる人の報告で、心礎の所在が判明。心礎は藤田男爵の手で目白の山形元帥の椿山荘に送られ、戦災で焼けたものが残存する。
心礎は手水鉢に転用のため、柱穴は彫り広げられる。
高さは約1.4m。
 大和唐招提寺東塔心礎:椿山荘提供 :左図拡大図

2007/12/31追加:
「日本の木造塔跡」:
大きさは1.9×1.6×1.36m、表面に径86×深さ29cmの円穴を彫る。柱座の造出は認められない。
但し、円穴の底は周囲より3cmほど深くなってしる。これは手水鉢の穴の通常の手法であるから、穴は掘り下げられていると思われる。
径86cmは柱穴の径と思われるので、拡げられていることは無いと推測される。
「日本美術全集3 薬師寺と唐招提寺」:唐招提寺伽藍配置図:鎮守の南側が東塔跡
 ※なお昭和38年、興福寺一乗院宸殿(慶安2年<1649>)が御影堂として移建される。

撮影備無記入は2011/08/23撮影:
唐招提寺伽藍

○南大門
昭和35年(1960)に天平様式で再建される。
2019/03/06撮影:
 唐招提寺南大門

○唐招提寺戒壇
唐招提寺創建時に築かれるも中世に廃絶し、鎌倉期弘安7年(1284)に再興されたとも、弘安7年に初めて築かれたとも云うが不明。
戒壇堂は嘉永元年(1848)焼失(倒壊とも)と伝え、現在は3段の石檀のみが残る。
戒壇堂は上掲「大和名所圖會」及び「唐招提寺伽藍図」では南面し、重層の堂として描かれる。
昭和55年(1980)戒壇石檀上にインド・サンチーの古塔(大ストゥーパ・第1塔)を模した宝塔を置く。
 唐招提寺戒壇1:南(正面)から      唐招提寺戒壇2:東から撮影      唐招提寺ストゥーパ

○御影堂<興福寺一乗院遺構・旧一乗院 宸殿 殿上及び玄関>(重文)
慶安2年(1649)建立。昭和27年までは奈良地方裁判所の庁舎として使用され、昭和29年に唐招提寺に移築される。
鑑真和上像(国宝)を安置する。
 唐招提寺旧一乗院遺構1     唐招提寺旧一乗院遺構2
2019/03/06撮影:
平成27年から平成大修理事業に着手、約5年の工期を予定。
 唐招提寺旧一乗院遺構3     唐招提寺旧一乗院遺構4

○金堂:
国宝、奈良期建立の現存する唯一の金堂建築である。2009年平成の大修理落慶。桁行7間梁間4間、寄棟造。
文永7年(1270)、元亨3年(1323)、元禄6-7年(1693 -94)、明治31-32年に修理。
元禄の修理では、創建当初は垂木のすぐ上に瓦を葺いていたものを改めて、屋根勾配を急にし、桔木を入れ、近世の小屋組に改造する。
本尊・廬舎那仏坐像(国宝)、向かって右に薬師如来立像(国宝)、左に千手観音立像(国宝)の三躯の巨像を安置、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像 (国宝)、須弥壇の四隅に四天王立像(国宝)を安置する。
 唐招提寺金堂1     唐招提寺金堂2     唐招提寺金堂3     唐招提寺金堂4     唐招提寺金堂5     唐招提寺金堂6
2019/03/06撮影:
 唐招提寺金堂7     唐招提寺金堂7
○講堂:
国宝 、入母屋造、本瓦葺)桁行9間、梁間4間。天平宝字4年(760)頃、平城宮の改修に伴い、平城宮東朝集殿を移築・改造したものである。本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉期)、持国天、増長天立像(重文、奈良期)を安置する。
 唐招提寺講堂1     唐招提寺講堂2
○礼堂・東室:
(重文)元僧房を弘安6年(1283年)に改築。桁行19間、梁間4間、入母屋造、本瓦葺。中央に馬道(めどう)があり、それより北 10間が東室、南8間は仏堂に改築、隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための礼堂である。
 唐招提寺礼堂・東室1     唐招提寺礼堂・東室2     唐招提寺礼堂・東室3
○鼓楼:
国宝、仁治元年<1240>建立。楼造、屋根入母屋造、本瓦葺。
鑑真が唐から請来した仏舎利を安置、舎利殿とも称する。
 唐招提寺鼓楼1     唐招提寺鼓楼2     唐招提寺鼓楼3
○経蔵、宝蔵(ともに国宝)
何れも奈良期の校倉造倉庫。
 撮影画像なし
○地蔵堂(木造地蔵菩薩立像<重文>を安置)
 唐招提寺地藏堂1     唐招提寺地藏堂2
○本願殿 :元は開山堂と称す、鑑真和上像(国宝)は元はここに安置されていたと云う。
 唐招提寺本願殿
○唐招提寺本坊(蔵松院)
 唐招提寺本坊
唐招提寺塔頭には西方院(近鉄線を越えた西にある)、応量坊、勧学院(?)が残ると思われる。


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