大 和 長 谷 寺 三 重 塔 跡 / 五 重 塔

大和長谷寺三重塔跡・五重塔・十三重塔

豊山長谷寺三重塔

○豊山長谷寺三重塔図
「大和長谷寺真景図」

2012/08/27追加修正:
◆「大和長谷寺真景図」:寛永15年(1638)
 大和長谷寺真景図三重塔:左図拡大図:
  2012/08/21画像入替:「神と仏のいる風景」 より
※左上に三重塔、中央左に多宝塔、右下に三重塔、本堂東に十三重塔が描かれる。
※中央左端に寛永15年(1638)の年紀がある。天文5年(1536)焼失後の復興予定図と推定される。
左上三重塔は明治9年焼失。
右下三重塔は情報なし。與喜寺下にある。文字判読できず。
中央左多宝塔も情報なし。
本堂東には十三重塔があった。
中央下端に描かれる十三重塔は法起院石造十三重塔であろう。
なお、本堂東北には鎮守瀧蔵三社権現が描かれる。
右端下方には鎮守與喜天神・與喜寺が描かれる。

※現存する木造十三重塔は多武峯妙薬寺の塔婆僅か一基であるが、文献上 あるいは遺構の残る木造十三重塔は以下が知られる。
 山城笠置寺南都興福寺四恩院鎌倉極楽寺山城高山寺山城光明峯寺・大和長谷寺・大和菩提山正暦寺備前八塔寺

「大和名所圖會」寛政3年(1791)刊:

大和名所圖會三重塔(部分図):左図拡大図

「西国三十三所名所圖會」巻之8
   記事:三層塔(本堂の左の山上にあり。大日如来を安ず。)         


豊山神楽院長谷寺:下図拡大図:2020/06/30画像入替

初瀬山之図(江戸期) :2010/02/21画像入替
奈良県立図書情報館に以下の解説がある。(要旨)
豐山長谷寺本願院の出版。木版墨刷。
天正13年(1585)豊臣秀吉による根来寺焼き討ちの後、根来寺小池坊専誉が長谷寺に入り 小池坊を再興。小池坊は「能化の職の寺」と云われる。 「学寮之数六十長屋余有之」とは新義僧の養成所施設を云う。
本願院は、法華千部・万部経の執行や祈祷旦那の御祈祷などを中心に活動、観音散銭・開帳銀も支配。寛文年中(1661〜72)までは、観音御影の販売権も独占。三重塔の支配も宝永2年(1705)まで行う。
延宝2年(1674)小池坊らと訴訟を構えて敗訴後は一山の支配を受ける(「長谷寺略史」)。
なお寛文10年(1670)小池坊が本図の位置に移転する。現本坊。

大和国豊山長谷寺真図(明治13年) :2012/03/09画像入替
但し、図中の三重塔は明治9年焼失であるから、当図出版当時は既に三重塔は無かったはずである。

2012/03/09追加:
長谷名所一覧之図(明治13年)
図中に三重塔が描かれるのは上図と同一で、おそらく少し以前の図版を使ったものであろう。
また図の右端に与喜山天満宮・与喜寺が描かれるもの同一の事情であろう。

○豊山長谷寺三重塔跡

三重塔跡 :(2002/10/13撮影)

明治9年に落雷により三重塔は焼失。
塔跡ほぼ完存。昭和29年三重塔跡北隣に五重塔として再興。

大和長谷寺三重塔跡1:左図拡大図

大和長谷寺三重塔跡2:左下図拡大図

大和長谷寺三重塔跡3:右下図拡大図

2004/11/06撮影:
 大和長谷寺三重塔跡11      大和長谷寺三重塔跡12     大和長谷寺三重塔跡13     大和長谷寺三重塔跡14
2012/02/18撮影:
 大和長谷寺三重塔跡21     大和長谷寺三重塔跡22     大和長谷寺三重塔跡23
三重塔跡実測値:
 三重塔初重平面規模(実測)は中央間150cm(5尺)、両脇間120cm(4尺)を測る。従って初重一辺は390cm(13尺)となる。


再興塔婆(豊山長谷寺五重塔)

塔婆は昭和29年、五重塔として三重塔跡北側に再興される。

昭和29年建立。平成元年大修理。高さ21.38m。
小型塔であるが、戦後の塔としては優れた塔婆であろう。
すぐ傍らに明治9年焼失の三重塔跡が残る。

2004/11/06撮影:
 大和長谷寺五重塔1
   同        2(左図拡大)
   同        3
   同        4
   同        5

2002/10/13撮影:
 大和長谷寺五重塔1
   同        2
   同        3
   同        4
   同        5
   同        6
   同        7
   同        8


2012/02/18撮影
 大和長谷寺五重塔21
 大和長谷寺五重塔22
 大和長谷寺五重塔23:左図拡大図
 大和長谷寺五重塔24
 大和長谷寺五重塔25
 大和長谷寺五重塔26
 大和長谷寺五重塔27
 大和長谷寺五重塔28
 大和長谷寺五重塔29
 大和長谷寺五重塔30
 大和長谷寺五重塔31
 大和長谷寺五重塔32
 大和長谷寺五重塔33


長谷寺概略

長谷寺概要
新義真言宗豊山派総本山。幾度かの火災焼失を経るが、その都度再興され、現在も大規模な伽藍を有する。
朱鳥元年(686)、天武天皇代、川原寺道明上人が本長谷寺を建立し、長谷寺が創建される。
その時、三重塔が建立され法華説相図(国宝)が納められる。
神亀4年(727)徳道上人が観音堂を建立し、観音霊場として上下の信仰を集めることになる。
本尊は長谷観音と称する。(現本尊は天文7年<1528>の再刻・重文、御身2丈6尺7寸<8m>の巨像)
西国33所第8番札所。

元は東大寺末、平安中期には興福寺末となる。
天正13年(1585)豊臣秀吉、根来山を攻略、根来山は灰燼す。
根来小池坊の専誉上人及びその門下は根来から高野山に入り、さらに泉州に逃れ、その後豊臣秀長の要請で長谷寺に妙音院小池坊を再興し住する。
 ※小池坊の由来:紀伊根来寺の学頭坊の傍らに小池があり、根来学頭坊は小池坊と呼ばれたことに由来する。 → 紀伊根来寺
 ※一方、学頭智積院玄宥は、京都に逃れ、後に豊国大明神の坊舎の地に智積院を再興する。 → 京都智積院山城豊国社
それ以降、長谷寺は新義真言豊山派総本山として全国末寺(現在3000余寺)を統制する。
近世、関東では、豊山の隆光が徳川幕府の信を受け、現音羽護国寺を建立、関東一円で豊山派末寺を増加させ、現在の隆盛の基礎をなす。

長谷寺伽藍

長谷寺境内図:2012/02/24追加:「最新旅行案内13 奈良」日本交通公社、昭和37年 より
 豊山長谷寺境内図
2012/02/18撮影:
 長谷寺境内俯瞰:本堂舞台から
長谷寺仁王門:重文、明治18年再建
 長谷寺仁王門1     長谷寺仁王門2     長谷寺仁王門3     長谷寺仁王門4     長谷寺仁王門5
長谷寺登廊;重文、長歴3年(1039)創建、百八間、三九九段、上中下の三廊にからなる。下、中廊は明治22年再建。
 長谷寺登廊1     長谷寺登廊2     長谷寺登廊3     長谷寺登廊4     長谷寺蔵王堂:本尊蔵王権現
  ※登廊は下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊から構成される。
長谷寺六坊:歓喜院、梅心院、慈眼院、清浄院(現新宝物館)、金蓮院、残り一坊は未掌握
 歓喜院梅心院慈眼院1:左奥は小池坊
 歓喜院梅心院慈眼院2: 天狗杉の背後が慈眼院、右端に少し見えるのが金蓮院、左上は小池坊
 長谷寺歓喜院:元禄14年(1701)再興
 長谷寺梅心院:慶長年中初期、徳川家康に より建立
 長谷寺慈眼院:寛文5年(1665)建立
 長谷寺清浄院(元十論院、天和2年1682慈心院として再興、明治維新後清浄院と改号、現在は新宝物館となる)
 長谷寺月輪院1     長谷寺月輪院2     長谷寺金蓮院1
 長谷寺金蓮院2     長谷寺金蓮院3:承応2年(1653)再興
 三部権現社:寛文6年(1666)長谷寺鎮守として根来寺より勧請、寛文12年九社明神を勧請
長谷寺本堂
 2002/10/13撮影:長谷寺本堂2002
 2004/11/06撮影:豊山長谷寺本堂1      豊山長谷寺本堂2      豊山長谷寺本堂3
  (正堂は9間×5間、礼堂は9間×4間の大建築で、さらに5間×3間の舞台が付属、慶安3年<1650>造立、2004年国宝に指定)
 長谷寺本堂4     長谷寺本堂5     長谷寺本堂6     長谷寺本堂7     長谷寺本堂8
 長谷寺本尊:重文、天文7年(1538)再興像
 長谷寺鐘楼:重文、慶安3年建立、屋根入母屋造・本瓦葺。
 長谷寺三百余社:<見落し>重文、鐘楼左手前に位置する。慶安3年(1650)造立、一間社春日造、屋根銅板葺。
滝蔵三社権現:天平5年徳道上人創建、慶安3年(1650)徳川家光再建
 滝蔵三社権現1     滝蔵三社権現2
 滝蔵三社権現東社:石蔵権現・本地地藏菩薩
 滝蔵三社権現中社:滝蔵権現・本地虚空蔵菩薩
 滝蔵三社権現西社:新宮権現・本地薬師如来
 長谷寺日限地藏     長谷寺能満院
 長谷寺大黒堂       開山堂(写真なし)
 長谷寺御影堂:本尊弘法大師、昭和59年建立
長谷寺一切経蔵:永禄4年(1579)牧野備後守成貞の建立、寛文7年(1667)水野石見守忠貞一切経を寄進
 長谷寺一切経蔵1     長谷寺一切経蔵2     長谷寺一切経蔵3     長谷寺一切経蔵4     長谷寺一切経蔵5
本長谷寺:朱鳥元年(686)道明上人ここに精舎を建立、千仏多宝塔銅盤(国宝)を安置す。これ長谷寺の草創なり。
 本長谷寺1     本長谷寺2     本長谷寺3     本長谷寺4     本長谷寺5
  ※下掲・與喜寺跡の項でも述べるように、明治9年本長谷寺は焼失する。
  同年與喜寺本堂を移築し本長谷寺を再建すると云う。つまり現在残る本長谷寺は與喜寺本堂遺構ということである。
小池坊(長谷寺本坊):明治44年焼失、大正13年再建。
 長谷寺小池坊1     長谷寺小池坊2     長谷寺小池坊3     長谷寺小池坊4     長谷寺小池坊5     長谷寺小池坊6
 長谷寺奥の院:興敦大師祖師堂、陀羅尼堂がある。
 長谷寺開山堂:徳道上人を祀る。<写真なし)
 長谷寺本願院(開山坊)<未見>
長谷寺普門院:普門院の寺歴は不詳。
 不動堂本尊木造不動明王坐像(重文・平安後期)は覚鑁上人の作と伝え、大和三輪明神平等寺に祀られたものと云う。
明治の神仏分離で平等寺の堂塔・寺中は取壊し、仏像などは近隣の寺院・民家に散逸する。
明治2年不動明王などは釜口山(長岳寺)に遷され、そのなかの現普門院不動堂本尊は明治8年長岳寺から当地に遷ると云う。
 長谷寺普門院     普門院不動堂:明治6年本堂宇も三輪明神から遷すとも云うも真偽のほどは未確認。

 秋葉山三尺坊大権現:総受付・休憩所に秋葉山三尺坊大権現像がある。この由緒は情報がなく不明。   →遠江秋葉山三尺坊大権現

豐山法起院:天平7年(726)徳道上人創建、元禄8年(1695)長谷寺化主英岳僧正長谷寺中開山堂として再建。
本堂には本尊として徳道上人像を祀る。また背後には石造十三重塔があり、徳道上人廟所とも供養塔とも云う。
西国33所巡礼番外札所:徳道上人が西国33所巡礼の創始者であるとの伝説による。
 長谷寺法起院山門     長谷寺法起院本堂・庫裏

 與喜天神切石御旅所     與喜天神中の橋天神

長谷寺伽藍遠望(附:長谷街道、鎮守與喜天神など)

2012/02/16追加:
大和長谷寺俯瞰:
 総本山長谷寺全景:絵葉書、年代不詳、左手上部に一重だけ見える方形屋根が五重塔か。手前やや左の大屋根の建築群が本坊(小池坊)
  2012/02/18訂正:左手上部に一重だけ見える方形屋根は五重塔ではなく、一切経蔵と思われる。この写真のアングルではその右隣
   に写ると思われる五重塔が写っていなく、もしそうだとすれば、写真撮影時期は五重塔再興と云う昭和29年以前であろう。
 大和國長谷寺全景:  同  上
 (大和)長谷寺全景:絵葉書、年代不詳、この写真には五重塔、本坊は写らない。
2012/02/16追加:
ブログ:薄氷堂に収録された大和長谷寺遠望
「O」氏より、長谷寺全景が撮影可能な撮影ポイントを取上げたブログを紹介される。
それは
大和長谷寺遠望撮影ポイント記事:「(February 12, 2012)Daily Oregraph: 京都通信員 桜井市を歩く (4)
である。
 ◎大和長谷寺遠望:上記ブログ記事から転載、撮影者:「S通信員」
本堂の左方向やや上に方形屋根が写るが、これが五重塔の五重屋根と思われる。
本遠望の撮影ポイントは下に示す「国土地理院地図・初瀬」の「愛宕権現社」の位置であると、上記のブログ記事から分かる。
 ※2012/02/24追加:本画像の撮影ポイントは、厳密に云えば「愛宕権現社」の位置ではなく、もう少し西の尾根からと推測される。
  なぜならば、
  本画像は、下掲の遠望P1からの写真と比べ、五重塔・経蔵がやや樹木に隠れ、遠望P1のさらに西側からの撮影と思われるからである。
  また、「愛宕権現社」の位置は下掲「長谷寺遠望P1−4」のように樹木が邪魔をして、本画像のような写真は撮影できない。
  「愛宕権現社」の西は急斜面で道は無いと思われるも、無理に西側に進むことは可能であろう。
  但し、実際に西側に入った訳ではなく、樹木の妨げなく写真を撮影することが出来るかどうかは分からない。
  なお、経蔵・五重塔がやや樹木に隠れる理由として、冬場でない季節の撮影ということも考えられるが、
  ブログでは2010/01/01撮影としているので、2012/02/18撮影時期とはそんなに大差がないと思われる。
  従って、樹木の葉の繁りの多寡が理由ではないと思われる。
 ○国土地理院地図・初瀬:(愛宕権現は地図中央やや右にある。 つまり長谷寺の南南東初瀬川を隔てた急峻な丘上にある。)
上記の地図では地形の概要の類推は可能であるが、小路が記めされず各所の連携が不明である。
そこで、小路の分かる地図を下に掲載する。
 ○初瀬(長谷寺付近)地図;長谷寺を中心に、愛宕権現、與喜天満宮、初瀬牛頭天王などが山中の路で繫がる様子が分かる。
 ※2012/02/24追加:地図に追加情報を記載、更新。
   大和から伊勢を目指す場合、初瀬を経由する街道があるが、初瀬に到達したとき、
  長谷寺に参詣をしない場合は、伊勢辻を右に折れ、下化粧坂を経て與喜浦に抜け、伊勢を目指すことになる。
  参詣をする場合は、伊勢辻を直進し、長谷寺に参詣し、その後與喜天満宮に詣で、上化粧坂を経て與喜浦に抜けることになる。
  もしくは、長谷寺から牛頭天王に詣でて、與喜天満宮に参り、上化粧坂を経て與喜浦に出ることも考えられる。
   逆に伊勢から初瀬経由大和を目指す場合、與喜浦に到着したとき、
  長谷寺に参詣する場合は、與喜浦天満宮前の分岐を右に入り、上化粧坂を経て、長谷寺に参詣することになる。
  参詣しない場合は、與喜浦天満宮の分岐を左に採り、下化粧坂を経て、「なら大坂」に直行することになる。
  しかし何れにせよ、往復とも、いずれも短いが急峻な化粧坂の鞍部を越えることとなる。

2012/02/18撮影:
 長谷寺等伽藍遠望写真撮影:天候;時折粉雪が吹雪く。
 
   長谷寺遠望P1−01:画像容量大:上図拡大図

 遠望P1:
 長谷寺遠望P1−02:画像容量大      長谷寺遠望P1−1      長谷寺遠望P1−2      長谷寺遠望P1−3
 長谷寺遠望P1−4:遠望P1(遠望ViewPoint1)の西、愛宕権現社より撮影、この地点からは樹木が茂り見通しが悪い。
 長谷寺遠望P1−5:以下五重塔及び一切経蔵
 長谷寺遠望P1−6     長谷寺遠望P1−7     長谷寺遠望P1−8
 長谷寺遠望P1−9:本堂
   ▽愛宕権現社遠望1:長谷寺本堂舞台から撮影。写真上方左端から中央やや右に向かって尾根道が見える。
               この尾根道が上記の「遠望P1」である。なお下方に写る伽藍は小池坊(本坊)伽藍である。
   ▽愛宕権現者遠望2:上記写真と同一である。中央に右肩上がりに見えるのが愛宕権現に至る参道で「遠望P1」がある道である。
               この参道の延長線上(中央右寄)に小さな屋根が写るが、これが愛宕権現社祠である。
 遠望P2:
 長谷寺遠望P2−1     長谷寺遠望P2−2     長谷寺遠望P2−3:小池坊(現本坊)
 遠望P3:
 長谷寺遠望P3−1     長谷寺遠望P3−2     長谷寺遠望P3−3     長谷寺遠望P3−4:仁王門
 ※P1〜P3は各々遠望ViewPoint1〜3を示す、遠望ViewPointは上掲載「初瀬(長谷寺付近)地図」で遠望P1、P2、P3と記す。
 ※遠望P1は伊勢辻から下化粧坂の急峻な部分を登り、鞍部を越えた付近から愛宕権現に至る尾根道にある。
  愛宕権現祠のある場所からの遠望は樹木越になり、見通しが良いとは云えない。(上掲長谷寺遠望P1−4
  遠望P2は與喜浦天満宮から上化粧坂に入り、鞍部を越え、中化粧坂の分岐を過ぎた地点と與喜天満宮参道石階に至る間にある。
  遠望P3は玉鬘庵跡から東南方向に入ったところ、與喜寺跡に至る道に途中にある。このViewPointは近年の崖崩れで樹木が倒壊し
  視界が開けたことによるものである。
2012/02/18撮影:
◇初瀬街道(化粧坂)・愛宕権現社
 ※以下は上掲載「初瀬(長谷寺付近)地図」に従って記述する。
長谷寺は大和と伊勢を結ぶ初瀬街道(伊勢本街道の別ルート)を見下ろす初瀬山の中腹に位置する。
初瀬街道は桜井から長谷寺を目指し、長谷寺門前の伊勢辻で長谷寺山門に至る道と伊勢に至る道に分岐する。
 伊勢辻の道標:西面は「右 いせみち」、南面は「右 くわん音 左 なら大坂道」、東面は「左 いせミち」、北面は「伊勢辻 石工櫻井与助」
  と刻む。享保11年(1726)建立と云うが、その根拠は不明。
長谷寺門前途中の「伊勢辻」で「右 いせみち」に入るとすぐに短いが急な「化粧坂」(下化粧坂・ケハイザカ)となる。
 急峻な下化粧坂
下化粧坂鞍部を越えると、丁字路があり、右を辿ると愛宕権現社に至る。権現社に至る途中は長谷寺遠望ViewPoint1である。
初瀬愛宕権現は「徳川家綱の疱瘡平安祈願の効により、勧請と伝える。」との情報があるが、定かではない。
 初瀬愛宕権現石階
 初瀬愛宕権現社:現在は祠が建つ。近年社殿は退転(火災か)し、祠が建立されたものと思われる。
  社殿前に一対の石燈籠(「奉造立石燈籠一基」)が建つも、その年紀は彫りが浅く読み取れない。(宝暦12年・1762か?)
もとの丁字路に戻り、少し降ると與喜浦の集落の入口に至る。この初瀬街道は與喜浦を通り過ぎ、最終的には伊勢に続く。
與喜浦集落入口に與喜浦天満宮がある。
 與喜浦天満宮
上記の伊勢辻方面からではなく、伊勢方面から與喜浦天満宮に至れば、その正面に「上化粧坂」と「下化粧坂」の分岐があり、その分岐に「右 くわんおん」の道標がある。
 「右 くわんおん」道標:左は下化粧坂、右は上化粧坂の道である。
さらに「右 くわんおん」道標の手前には、正確な名称は失念したが「戻り伊勢燈籠」がある。
 戻り伊勢燈籠:正確な名称は失念
  ※「右 くわんおん」道標の東側民家の住人の談は以下の通り。
  與喜浦天満宮は與喜天満宮を分祀したものと云う。(但し、この談は少々誘導したきらいがある。)
  「戻り伊勢燈籠」は伊勢から帰ってきた人を出迎え、その人々はこの石燈籠に感謝したという謂れを持つ。
   (燈籠自体そんなに古いものとは思えないが、年紀などの確認はせず。)
「右 くわんおん」道標に従って、観音道(上化粧坂)に入る。途中に中化粧坂の分岐があり、與喜天満宮参道石階下部に至る。
参道に至る直前に長谷寺遠望ViewPoint2がある。
 「中化粧坂」分岐:左は上化粧坂、右は中化粧坂、中化粧坂には侵入禁止の簡単な柵がある。
  ※この地に嫁ぎ30数年が経ち、上記「東側民家の住人」が親戚と云う婦人の談は以下の通り。
  中化粧坂は30年ほど前に途中が崩落し通れなくなっている。崩落したときは樹木も無く、長谷寺の絶好の遠望ポイントであった。
  今では樹木が繁り、遠望は利かないが、当時はNHKがテレビカメラを置いて撮影し、その映像は度々放映された記憶がある。
   (中化粧坂がどこに接続するのかは不明、おそらく下化粧坂のどこかに接続するのであろうか?)
  下化粧坂は天満宮参道に至り、そこをさらに直進すれば、「ごってらさん」(牛頭天王・この婦人はこのように発音)に至る。
  「ごってらさん」へは與喜天満宮のうしろ参道からも行くことが可能で、途中には最近崩落したところがあり、そこも遠望ポイントである。
   (この婦人は「右 くわんおん」道標から與喜天満宮参道まで案内をして下さいました。)
◇與喜天神及び與喜寺跡
與喜天満宮参道石階途中に「與喜寺」跡がある。
 與喜天満宮與喜寺跡1     與喜天満宮與喜寺跡2     與喜天満宮與喜寺跡3     與喜天満宮與喜寺跡4
明治維新までは、與喜寺が與喜天神別当(もしくは本地堂、神宮寺、宮寺、社僧)の地位にあり、與喜天神を管理したのであろう。
  ※本長谷寺は、朱鳥元年(686)道明上人が初瀬山西の岡に建てた当初の長谷寺であるが、明治9年に焼失する。
  同年與喜寺本堂を移築し本長谷寺を再建すると云う。つまり現在残る本長谷寺は與喜寺本堂遺構ということであろう。
さらに、明治初頭の神仏分離で長谷寺境内の滝倉三社権現他を遷座し摂社とするとある。
 ※「長谷寺霊験記」では、「天慶9年(946)神殿太夫武麿(天満天神)が長谷の滝蔵社・観音堂などに参詣した折、
 地主神・滝蔵権現が、伽藍の守護を天満天神に譲り、東の峯は断惑修善に良き地(與喜地)なのでその峯に住むように命ずる。
 その為、天神は東の峯に降臨し、與喜大明神と称した」と云う。
 要するに、今では独立した社のように振舞うも、明治維新までは長谷寺の鎮守の一つであったのであろう。
なお、長谷寺門前町の中ほどに、切石御旅所(與喜天満神社授与所)がある。
 與喜天満宮1      與喜天満宮2      與喜天満宮3      與喜天満宮4
   ▽與喜山遠望:長谷寺本堂舞台から撮影。中央△形の山が與喜山で中腹に與喜天神が鎮座する。
◇玉鬘庵跡
與喜天神から牛頭天王への道の途中、牛頭天王参道手前に「玉鬘庵跡」がある。
 玉鬘庵跡1     玉鬘庵跡2
  ※玉鬘庵については興味がないので、他のWebサイトの参照を乞う。
初瀬牛頭天王社
 ※2019/02/13画像入替(2012/02/18撮影)
   ▽牛頭天王社遠望:長谷寺小池坊から撮影。右から社務所、秋葉明神と鳥居、大銀杏、拝殿、本殿(朱に彩色)が写る。
 牛頭天王社は、まず間違いなく明治の神仏分離で素盞雄神社と改竄されたものと思われるが、今も住民から「ごってらさん」(牛頭天王)と呼ばれる。明治維新まで廊土寺(或ハ序土寺)が管理に与ると云う。明治の神仏分離及び国家神道化の典型例の一つであろう。
 初瀬牛頭天王境内     牛頭天王十三重石塔:鎌倉期のものと云う。 <藤原家隆の供養塔とされる。(「女たちの長谷みち」)>
 牛頭天王境内2:正面が社務所、かってあったと云う廊土寺(或ハ序土寺)の跡地が付近に見あたらないので、おそらくは写真社務所の場所が宮寺の跡なのであろうか。左の社は「秋葉明神」で、明治初年長谷寺「十二社明神」を遷し、合祀したものと云う。
 ※2019/02/13画像追加(2012/02/18撮影)
 初瀬牛頭天王拝殿     初瀬牛頭天王本殿1     初瀬牛頭天王本殿2     初瀬牛頭天王本殿3
2019/02/13追加:
○「素盞雄神社」編集・発行:土井正、平成11年 より
 奈良県桜井市初瀬に所在、長谷寺の大伽藍の東を初瀬川が流れるが、その谷筋を隔てた東に鎮座する。
この牛頭天王については、長谷寺密奏記にそれらしい記述はない。
素盞雄神社の社号は明治の神仏分離令により、「牛頭天王社」が廃止され「素盞雄神社」と改号される。
寛永15年(1638)の境内図では「牛頭天王」となっている。
 古代、都では度々疫病は発生する。これは非業の死を遂げた人々の怨霊のなす業と云われた。
この怨霊のなす業から逃れるため「御霊会」が営まれる。貞観5年(862)御霊会が京都神泉苑で初めて斎行される。
その後、貞観18年(876)清和天皇、八坂祇園に牛頭天王を勧請し祇園感神院が成立する。但し、祇園感神院は奈良興福寺支配であった。
当時、長谷寺は東大寺支配であったが、正暦元年(990)興福寺支配となることもあり、
その翌年・正暦2年(991)祇園感神院より牛頭天王を初瀬の地へ勧請し、今の地へ祀ったのが、初瀬牛頭天王の創始である。
 長谷寺は古代より霊験が深く、多くの参詣者が続く。藤原家隆もその一人で、牛頭天王社近くに静居するという。それ故かどうかは別にして、牛頭天王社境内には家隆の供養塔と云われる十三重石塔が立つ。
 本居宣長「菅笠日記」では「・・・家隆の二位の塔とて、石の十三重なるあり。・・・また牛頭天王の社、その傍らに、苔の下水といふもあり。・・・」という。
 牛頭天王の明治以前の姿は不明であるが、僅かに「茅の輪くぐり」の行事が受け継がれ、お札には「牛頭天王」の文字が捺され、辛うじてその姿を偲ぶことができる。
 初瀬牛頭天王茅の輪くぐり     初瀬牛頭天王「お札」
 スサノオはアマテラスの弟で、地上に追放される。中世、牛頭天王とスサノオは一身同体の神とされる。
一方、牛頭天王は薬師如来の垂迹で、スサノオの本地仏とされる。また、牛頭天王はインド伝来の神とも云うが、確証はない。
 里人は牛頭天王社を「ごってらはん」と呼ぶが、その由来は次のように推測される。
ごずてんのうしゃさん→ごずてんのうしゃはん→ごずてんのうはん→ごずてんはん→ごってらはんと変化したと考えられる。
 茅の輪くぐり、この行事の由来は備後國「風土記逸文」の蘇民将来の項に記されている。
 初瀬牛頭天王境内図
  石灯篭(1):丸型灯篭、銘 牛頭天王 寄進、正徳3年(1713)年紀1713)年紀
  石灯篭(2):(1)と同型、銘 牛頭天王 寄進、文政8年(1825)年紀
 十三重石塔:鎌倉期、基壇に金剛界四方仏の種字が刻まれる。最下層の基壇45.5cm四方、高さ46cm、笠巾70cm、笠厚26cm

2012/03/09追加:
何れも上掲の図であるが、長谷寺周囲の與喜天神・與喜寺・化粧(けわい)坂などの様子が描かれる。
大和長谷寺真景図:図版が小さく文字の判別ができないが、右端下には化粧坂、與喜天神、與喜寺、牛頭天王などが描かれているものと推定される。
初瀬山之図(江戸期) :右端には与喜寺、天満宮、ごつ天王などが見える。
大和国豊山長谷寺真図(明治13年) :右端下から、化粧坂、上化粧坂、與喜寺、天満宮、やや左に牛頭社、玉鬘塔、石造と思われる層塔などがある。
長谷名所一覧之図(明治13年) :下中央に愛宕社、その右方向に下カワイ坂、右端に与喜山天満宮・与喜寺が描かれる。

◇参考:「菅笠日記」本居宣長、明和9年(1772) より
・・・・・  なほ山のそはぢをゆきゆきて。初瀬ちかくなりぬれば。むかひの山あひより。かづらき山うねび山などはるかに見えそめたり。よその国ながら。かゝる名どころは。明くれ書にも見なれ。哥にもよみなれてしあれば。ふる里びとなどのあへらんこゝちして。うちつけにむつましく覚ゆ。けはひ坂とて。さがしき坂をすこしくだる。此坂路より。はつせの寺も里も。目のまへにちかく。あざあざと見わたされるけしき。えもいはず。大かたこゝ迄の道は。山ぶところにて。ことなる見るめもなかりしに。さしもいかめしき僧坊御堂のたちつらなりたるを。にはかに見つけたるは。あらぬ世界に来たらんこゝちす。よきの天神と申す御社のまへに。くだりつきて。そこに板ばしわたせる流ぞ。はつせ川なりける。むかひはすなはち初瀬の里なれば。人やどす家に立入て。物くひなどしてやすむ。うしろは川ぎしにかたかけたる屋なれば。波の音たゞ床のもとにとゞろきたり。 ・・・・
◇参考:與喜天神の正面参道石階下鳥居の横に「ひだり いせミち」と刻む道標があると云う。(未見)
しかし、これは道理に合わないため、他所から移設されたものであろうと云う。

2012/03/25追加:
○「女たちの長谷みち」西野信明編、独楽の会著、文理閣、1987 より
 長谷化粧坂(部分):略図
化粧坂の由来は垂仁天皇の命を受けママテラスの鎮座地を巡礼したヤマトヒメがこの峠で化粧直をしたということに因むと云う。
伊勢辻から下化粧坂の峠を越え、伊勢街道を少し進むと「右観音みち」の道標があり左に「庚申のお堂」がある。
上化粧坂は「菅笠日記」で描写された坂である。
 ※本著に上化粧坂の「峠の茶屋あとという石垣を眺め」と云う記述があり、これから類推すれば、峠には茶屋跡石垣があると思われるも未見。
牛頭天王には藤原家隆の供養塔とされる十三重石塔がある。
初瀬街道(長谷寺門前の街道)の北側には途切れ途切れではあるが「隔夜道(隔夜僧の行き来した道)」が残される。
平安期空也上人たちが奈良高畑と初瀬隔夜堂を千から千五百日往復する修行をしたとされ、初瀬の隔夜堂は與喜寺、管明院、法起院などと云われるがさだかではない。
○「宝来講道中細見記 増補3訂」宝来伊勢講道中記作成委員会編、奈良大学鎌田研究室、1992-1994 より
 初瀬化粧坂:略図
與喜天神の(山下)鳥居前に「與喜天神宮」の石碑があり、そこには「本社より観音江ゆきぬけ」とも刻む。天神宮経由で長谷寺に抜ける道があるので、参詣をとの意図を刻む。
この石碑前に「ひだりいせ」と記す道標もあるが、これは向きが違い、他所からの移設であろう。
上下の化粧坂の合流地点に「右くわんおん」と刻んだ石碑があるが、その西に昭和63年ころ人家が建ち、付近の雰囲気が変る。


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