大  和  眉  間  寺  多  宝  塔

大和眉間寺多宝塔

近世の眉間寺概要

延宝3年(1675)版「南都名所集」に見る眉間寺
 巻の6:眉間寺 眉間寺多宝塔
記事:当寺は聖武天皇の御陵なり。本尊は地蔵菩薩。二重の宝塔あり。
 ※図は三重塔として描かれ、怪しげな描写ではある。
しかし、三重塔に描かれた訳とは次のようにも思われる。即ち、松永弾正は眉間寺を毀ち多門城を築城すると云い、毀された古の眉間寺には三重塔があったと伝え る。おそらくその残影なのであろうか。

大和名所圖會:寛政3年(1791)刊:に見る眉間寺多宝塔

眉間寺部分図

眉間寺全体図

眉間寺は佐保山と号する。
律宗で聖武天皇の御願・行階僧都の開基と伝える。
長寛年中、化人現われ眉間より光明を放つこと半時ばかりにして化する。
その跡に舎利2粒があった。それより勅して眉間寺という。
いにしえは眺望寺という。

なお背後の多聞山は松永弾正の多門城跡である。

2003/7/14追加:
聖武帝の御陵:「廟陵記 皇陵古図集成 8巻」末永雅雄、青潮社、昭和57年
 ※文久の修陵前はまだ眉間寺が健在であったことを示す。
 ※既に多宝塔はなく、「文久年帝陵御修繕に付宝塔破却本堂庫裏を檀下に移し」た後の姿とも思われる。

2003/7/14追加:
「みささぎ」田中望子、明徳出版社、昭和36年
 所収の「佐保路をゆく」第45代聖武天皇佐保山南陵の章
「大和名所図絵の中の眉間寺の図を見ると・・・中腹には堂舎が描かれている。・・・文久3年御修理の時に、観音堂、太子堂などの堂舎を廃して翌元治元年に工がなったという。・・・」
なお、聖武帝文久修理費用は525両という。

2007/01/04追加:
吉田東伍「増補 大日本地名辞書」 より
佐保山(サホヤマ)陵
 法蓮の北|眉間寺山に在り、即左京一条南路北五坊大路の衝にあたるか、聖武天皇の御陵なり。初め眉間寺を兆域内に造り、永禄年中松永弾正少弼久秀此に築城し御陵其中に在りしが、猶|御陵森 (ミサキモリ)と称し毀壊を免る。
文久二年眉間寺を山下に移し御陵を修治せらる。
延喜式云、佐保山南陵、平城宮御宇勝宝感神聖武天皇、在添上郡兆城東四段西七町南北七町。
佐保山東陵
 聖武皇后藤原光明子(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の東北にて、老松生じて南陵と相対す。〔名所図会陵墓一隅抄〕
佐保山西陵
 文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北|大黒芝と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。那富 (ナホ)山墓は聖武天皇の皇子基親王の葬所とす、近く南陵の西北に在り。(陵墓一隅抄)按に那富山は奈保山直山に同じ、即元明元正と其陵号を一にす、古へより佐保山奈保山又椎山は差別なかりしにや、不審。
椎岡(ナラヲカ)墓は藤原不比等の墓なり延喜式に見ゆ。眉間寺の西に在り佐保山西陵と相并ぶ、〔陵墓一隅抄京華要誌〕椎は楢と同訓なり。隅山(スミヤマ)墓は藤原房前の墓にて、今杉山と号し老松三株雑樹茂生す、椎岡同所なり、隅山墓類聚国史に見ゆ。〔県名勝志〕  
眉間寺址
 佐保南陵の兆域内、其眉間に在りて、寝園看侍の僧なりき。坊目遺考云、和州寺社記、崩御奉葬の後其傍に本寺を建つ、眺望山と号し、仏殿宝塔鐘楼庫裡等ありしと、文久二年之を撤去し山下に移し、其後数年悉皆廃亡す。元亨釈書云、道寂居元興寺、移住眉間寺、其寺主有旧好、嘗作一磔手半観音像一千躯、未畢寂、戮力而成、又鋳洪鐘三、捨東大長谷金峰三寺。
補【眉間寺】
○平城坊目遺考 眉間寺址は佐保村大字法蓮、佐保南陵内に在り、眺望山と号す、本堂多宝塔、鐘楼庫裏等の址は今御陵御構内半腹に在り、和州社寺記曰、眉間寺は天平勝宝八年丙申五月二日聖武天皇御年五十六歳にして崩御し給ひ、此所に奉葬、傍に寺を建、眉間寺と号すと云々(松永築城時御陵構内に在り)当寺文久年帝陵御修繕に付、宝塔破却、本堂庫裏を壇下に移す、皇政復古後滅亡
 ※以上によれば、文久2年(1862)に修陵という名の破壊行為が行われたことが分かる。
「文久2年眉間寺を山下に移し」
「本堂多宝塔、鐘楼庫裏等の址は今御陵御構内半腹に在り」
「当寺文久年帝陵御修繕に付、宝塔破却、本堂庫裏を壇下に移す、皇政復古後滅亡。」
 ※文久2年、聖武天皇陵改変のため、多宝塔は破却され、本堂庫裏は檀下(山下)に移建する。眉間寺は明治初頭に廃寺。

2007/09/02追加:
「平城坊目遺考」金沢昇平、奈良:阪田稔、明治23年 より
眉間寺址:佐保村大字法蓮佐保南陵内 号眺望山
本堂多宝塔鐘楼庫裏等址は今御陵御構内半腹にあり
和州社寺記曰眉間寺ハ天平勝宝八年・・聖武天皇・・崩御し給ひ此所に奉葬傍に寺を建眉間寺と号す云々
東大寺略録抜粋曰・・・永祚(989)・・依大風顛倒天永2年(1111)・・伊賀上人道舜勧進造営と云々
当寺文久年帝陵御修繕に付宝塔破却本堂庫裏を檀下に移し皇政復古後滅亡

2009/03/01追加:
「大和志」:
眉間寺、法蓮村に在、一名佐保寺、久安中沙門道寂寓居、正堂観音堂多宝塔鐘楼鎮守神祠僧舎一宇有り。

近世眉間寺復元

2009/08/23追加:
「松永久秀の居城」高田徹(「織豊系城郭の成立と大和」2006 所収) より
 ※この論文にて、多聞城および特に近世眉間寺の伽藍位置について決定的な教示を得る。
  以下この論考の要約を掲載、加えて、この論考によって、この論考を知る以前の記事の内容を訂正する。

陵墓図(佐保山陵墓測量図)

佐保山南陵・東陵の詳細かつ正確な大正15年測量図がある。
この陵は中世から聖武天皇陵などとして東大寺によって祭祀され、近世末にも尊王の高まりとともに当該天皇陵として大規模化された。
 ※この陵墓は天皇陵指定であるから主権在民となった戦後にも、立ち入りは禁止されている。しかし逆にこのことによって、人為的な破壊からこの地域が守られたことも皮肉な結果であろう。つまり大正15年の正確な測量の通りの地形が現在でも保たれているということで、結果的に近世眉間寺跡の地形が保持されているのは幸いであろう。
 佐保山陵墓測量図:大正15年測量、「聖武天皇佐保山南陵皇后光明子安宿媛佐保山東陵」図、
    等高線は10cm間隔で表される精密な測量図、縮尺は1/500
    宮内庁書陵部編「宮内庁書陵部陵墓地形図集成」学生社、平成11年 所収

佐保山南陵(聖武陵)と近世眉間寺伽藍復原図

近世眉間寺伽藍の概要は上述の大和名所圖會大和名所圖會眉間寺全体図でほぼ正確に知ることが出来る。


 ※この図会の他の寺社の描写と現状との比較の事例で判断すれば、描写の正確性はほぼ満たされていると判断される故に、
この眉間寺の描写も、ほぼ正確であろうと判断される。

 一方、上述の大正15年測量佐保山陵墓測量図では
佐保山南陵の頂部には、聖武陵として祭祀されてきた小墳丘・みささぎ)とその南に平坦地があることが分かる。
さらにこの頂部の平坦地の南側、つまり現在の「拝所」の北には、ほぼ大和名所圖會で描かれた地形がほぼそのまま残ることも分かる。
この地形に大和名所圖會の眉間寺伽藍を落としたのが次の「近世眉間寺伽藍復原図」である。

近世眉間寺伽藍復原図」:左図の全容図

 以上のように、大和名所圖會の描く眉間寺堂塔・石階などを配置した地形は、この「陵墓」の示す地形図にほぼ整合し、かつこの 「陵墓」図の地形にピタリと落とすことが出来る。
 ◆近世眉間寺伽藍復原図
  ※高田徹氏の「松永久秀の居城」にも同一の図が掲載されるが、その図をほぼ忠実に転写したのが本図である。
   ----この復原は全て高田徹氏の業績によるものである。---
  ※以上のように、近世眉間寺伽藍は拡張された佐保山南陵(聖武陵)内に展開していたものと推定され、
   今も見事に陵墓内にその地形を残すものと思われる。
但し、大和名所圖會では「みささぎ」は小墳丘が柵で囲われ、その前に鳥居があり、眉間寺本堂裏から二筋の参道があるように描かれるが、この部分は測量図との齟齬が大きい 。
恐らくこれは、幕末の佐保山南陵整備で陵墓は大幅に拡張されたが、その工事内容の実態は「みささぎ」の直の南側はかなり削平整形するも、その下の眉間寺の堂塔のあった場所では堂塔、土塀(客殿庫裏の西・中門の東西)および石階の撤去のみに留まり、地形の 削平・盛土などの改変は無かったということを意味するであろう。
即ち、幕末の山陵工事は、旧来の小墳丘とその周囲の整形、その南側にあった眉間寺上段伽藍地の堂塔などの撤去、以上を陵内に取り込む拡張工事、現在の拝所の 新造・整備、眉間寺旧参道の整備・陵墓の参道化という工事であったと推定されるが、幸いにも眉間寺上段伽藍地では建物・礎石・石階などの撤去のみの工事で大幅な削平や盛土を伴うものではなかったといえるのであろう。

「佐保山南陵の平坦地」は「近世眉間寺の跡地なのであり、その廃絶時の姿に近いと考えよう」との言は云い得て妙と思われる。

 ※「佐保山陵墓測量図」:「宮内庁書陵部陵墓地形図集成」宮内庁書陵部陵墓課、学生社、1999 に所収。大正15年測量とある。

多聞城の遺構現況

 多聞城現況図
以上の研究成果があるが、多聞城の詳細については論及する力量はない。が、眉間寺との関係で以下のことが言えるであろう。
・佐保山東陵は遺構の状況から、多聞城の縄張りに完全に取り込まれたものと思われる。墳丘は築城で削平されたが、現墳丘は後世に新に盛土されたものと思われる。
・佐保山南陵はおそらく多聞城外であったであろう。頂部に石室を残す墳丘が残る(近世の文献で石室の露出記事が散見される)ということなどで、多聞城の何等かの関連施設があったとしても、基本的には城外であったであろう。
・但し、佐保山南陵の北辺・西辺には溝および土塁状の遺構が残り、多聞城の城外ではあるが外郭と思われる遺構が残る。
現在眉間寺礎石などの置かれている平坦地の性格は不明であるが、おそらく幕末の修陵時に設けられた可能性が高いであろうと思われる。


近世眉間寺の主要堂塔は聖武天皇陵の南側山腹に展開されていた。
 (※聖武天皇陵とは後世にそういう名称で呼ぶ場所のことで、当然聖武天皇陵かどうかは分からないし、むしろ素性の怪しいあるいは眉唾ものと云うべきものであろう。)
佐保山と号し、東大寺戒壇院末であった。
大和名所図會の伽藍図では、佐保川の橋を渡ると入口右手に地蔵堂があり、参道を進み階段を上り、右手に鐘楼がある。
本堂は中門を入り、高い石段上にあり、舞台造であった。本堂北に客殿・庫裏などがあり、南に多宝塔があった。
そのほか観音堂、太子堂などの堂宇がある。背後の丘陵に聖武天皇陵と称する墳墓がある。
江戸期には寺領100石(和州寺社記)という。
慶長7年(1902)「諸堂大破、寺塔修理」の記事があり、多宝塔はこの頃に造立されたか、あるいは文正年間に造立された塔が修理されたとも解される。
本尊は地蔵菩薩で、のち阿弥陀如来になったという。
室町期衰微したが、文正元年(1466)行明上人が再興したと伝える。

文久2年(1862)に寺院は撤去、明治維新で廃寺となる。・・・「天皇陵総覧」より
下記掲載・吉田東伍「増補 大日本地名辞書」:
 「・・・仏殿宝塔鐘楼庫裡等ありしと、文久二年之を撤去し山下に移し、其後数年悉皆廃亡す。・・・」
下記掲載・「平城坊目遺考」金沢昇平:
 「当寺文久年帝陵御修繕に付宝塔破却本堂庫裏を檀下に移し皇政復古後滅亡」
 ※文久の修陵で多宝塔は破却、本堂庫裏は檀下(山下)に移し、明治維新の混乱で廃寺となる。

廃寺の時、主な什宝は東大寺に移される。
阿弥陀、釈迦、薬師三尊(鎌倉・重文・旧本堂中尊)、四聖御影像(重文)などが東大寺に現存すると云う。(不詳)
そのほか法蓮町会所にも仏像・仏画が現存、その他各地にも散逸していると云う。(不詳)
2009/03/01追加:
 ※「木造阿弥陀如来坐像(東大寺・重文)明治に廃寺となるまで聖武天皇陵を鎮護してきた眉間寺の本尊であった。」とのブログ記事あり。
  これは、奈良国立博物館・本館の展示と云う。
2009/08/20追加;
眉間寺本堂安置の釈迦、阿弥陀、薬師の三如来像は東大寺勧進所阿弥陀堂の奥の間に安置と云う。
 ※阿弥陀如来坐像(平安末期、重文)、釈迦如来坐像(鎌倉、重文)、薬師如来坐像(鎌倉、重文、桧材寄木造、玉眼)
  ※勧進所阿弥陀堂本尊は五劫思惟阿弥陀如来坐像(鎌倉時代・国重要文化財)で、これは眉間寺とは関係はない。
  ※眉間寺旧蔵阿弥陀如来坐像は2008年奈良国立博物館の企画展で展示されたと思われる。
西方寺(浄土宗草鞋山)本尊阿弥陀如来立像(藤原期、重文)は眉間寺旧蔵と伝える。
伝香寺石造地蔵菩薩像(「片袖地蔵」と呼ばれる)は眉間寺から遷座と云う。
法蓮町会所にも仏像や寺宝が移座、眉間寺旧蔵菩薩坐像2体(天平)は現在個人蔵と云う。

2015/12/09追加:
旧眉間寺本堂安置の阿弥陀如来坐像(平安期)、釈迦如来坐像(鎌倉期)と薬師如来坐像(鎌倉期)の三尊が東大寺ミュージアムにて展示される。三尊が三尊形式で並ぶのは眉間寺廃寺以来のおよそ140年ぶりという。
展示期間は平成27年10月20日(火)〜平成28年3月下旬(予定)である。
2015/11/21この三尊像を拝観する。
 旧眉間寺本尊三尊像:東大寺ミュージアム展示、「産経ニュース」のサイトより転載
 旧眉間寺阿弥陀如来坐像:以下「埃 まみれの書棚から〜古寺、古佛の本〜(第百四十三回)」のページから転載
 旧眉間寺釈迦如来坐像
 旧眉間寺薬師如来坐像
 旧眉間寺阿弥陀如来坐像2:2015/11/25「朝日新聞」>「古都ナビ」掲載写真より転載
阿弥陀如来坐像は重文、東大寺収蔵庫に安置と思われる。
釈迦如来坐像・薬師如来坐像は東大寺勧進所阿弥陀堂の奥の左右檀に安置という。今般、東大寺勧進所阿弥陀堂が修理に入り、これを機会に三尊を公開という。

2023/08/04追加;
○「もっと知りたい 東大寺の歴史」筒井寛昭・梶谷亮治・坂東俊彦、東京美術、2010 より
南都眉間寺伝来
◇「絵解き東大寺縁起」2幅、絹本着色、鎌倉期、重文:
 絵解き東大寺縁起・右幅
2幅の内、左幅は東大寺草創に関わる説話を描く。登場人物は行基菩薩、良辨僧正、印度僧菩提僊那、鑑真和上、聖武天皇、光明皇后、實忠和上で、それにかかわる説話が解かれる。
右幅は東大寺伽藍が描かれる。上方は二月堂、法華堂、八幡大菩薩、その下方は講堂でその左には鐘楼・俊乗堂、別所阿弥陀堂(推定)、右には戒壇院が描かれる。
中央は大仏殿、中門・回廊に囲まれ、大仏開眼會が執行されている。左右には七重塔が描かれる。
下方は南大門で、回廊を伴う。
本図は南都眉間寺に伝わったもの。
○「奈良六大寺大観 第十一巻 東大寺三」岩波書店、1972(真保亨) より
「東大寺年中行事記」享保11年(1726)4月「寺宝展観目録」 には次のようにある。
 一、東大寺伽藍図并聖武天皇建立絵図 土佐光信筆 二幅
   右 眉間寺ゟ所出
[箱書] には次の様にある。
 東大寺曼荼羅二幅 南都眉間寺常住物

2015/12/09追加:
西方寺阿弥陀如来坐像
 西方寺みてござる観音:2015/11/21撮影:西方寺西側の曼荼羅坊と称する建物である。(西方寺本寺は未見)
 旧眉間寺西方寺阿弥陀如来坐像:平安期?、重文 :「平安時代の阿弥陀仏がおわす『西方寺』@奈良市油阪町」のページより転載

2004/2/15追加:
金峰山弘願寺阿弥陀如来像;
大和金峯山黒門と銅鳥居の間にかっての吉野山金峯山寺の一山寺院であった弘願寺(来迎山、高野山真言宗)が現存する。
本尊阿弥陀如来立像は後世の補修があるが、この像から鎌倉期の「像立願文」と室町期の「修理願文」が発見されたと云う。
 「像立願文」大意:「僧重信臨終の時に阿弥陀如来の極楽浄土へ往生することを願い、正元2年(1260)3月6日造立をはじめ、6月末に完成して自坊に迎えた・・・、仏師は弁貫」。
 「修理願文」大意:「阿弥陀如来は、大和眉間寺新堂の本尊である。文明2(1470)年5月17日の朝からの大雨で、翌18日の朝に後山が崩落、新堂、宝蔵院が倒壊。しかるに方丈は少しも損なわれず。阿弥陀如来も破損、急いで修理を依頼し、仏師春賀丸により、5月29日に修理完了」。仏師春賀丸は大仏師康慶の流れを 汲むとされる。
 「大乗院寺社雑寺記」:「近頃大雨、方々の山が崩れ、眉間寺長老坊が倒壊、僧が一人死亡」とあると云う。
なおこの阿弥陀如来の伝来の時期、理由は不明とするが、常識的には、明治初年に眉間寺が廃寺となった頃、弘願寺に遷座された可能性が高いと思われる。

2007/10/22追加:
 2007/01/29日付「奈良新聞」に「石橋を往時しのぶ資料に−眉間寺から東大寺本坊の庭園に移築」とのタイトルの記事の掲載あり。
2012/03/29「奈良新聞」記事を入手:
○「2007/01/29日付奈良新聞」 より・・・要旨
眉間寺石橋は「大和名所圖會」に登場、参道入口に描かれる。眉間寺廃寺の後、解体して佐保山御陵の参道脇に置かれていたが、東大寺が宮内庁と交渉して譲受することになる。石橋は幅約2.5mで、重さは約2トンあり、破損部分は修復し、庭園の小川に移築する。
「旧眉間寺石橋」と刻む石碑も造り、袂に設置される。
 報道写真・眉間寺石橋:東大寺本坊 (東南院)庭園に移築された石橋
  ※「大和名所圖會」→眉間寺絵図(上掲)の門前に反橋と思われる橋が描かれる。本反橋が今般移建された石橋であろう。
  ※東大寺東南院は非公開、未見。

眉間寺跡の現状

多聞城跡にあったという時代のことは不詳ながら、
近世の眉間寺は山陵修陵(塔取壊し・本堂庫裏の山下への移転)及び明治維新の廃寺で廃絶する。
しかしながら、山陵内に上段伽藍と思われる地形をそのまま残すと思われる。
  2009/08/24追加:上掲載近世眉間寺伽藍図
また、山陵西の麓の平坦地に眉間寺とされる礎石を十数個残す。またこの麓の平坦地入口に「眉間寺遺跡」の石碑が建つ。
 ※この平坦地は近世眉間寺跡とは無関係、礎石はここに集められたもので、その経緯や時期は不詳。
◇2007/10/22追加:2007/10/13撮影:
 推定眉間寺跡1:聖武天皇陵 (佐保山南陵)を西側から撮影:写真中央の山頂に小墳丘があるとされる。
 推定眉間寺跡2:山陵を南から撮影: 中央右の鳥居のある場所が拝所で、そのやや上の段に近世眉間寺堂塔があった。
 推定眉間寺跡3:近年に積まれたと思われる石垣の上の平坦地に眉間寺礎石が置かれる。この平坦地は眉間寺跡とは無関係。
 推定眉間寺礎石1:礎石は散逸するも、残った礎石をこの地に集めたものと推測される。
 推定眉間寺礎石2: 同上
 推定眉間寺礎石3:礎石は自然石で、若干表面を削平した形跡が見られる礎石もある。
 推定眉間寺礎石4: 同上
 推定眉間寺跡4:現山陵外・山陵 下段の平坦地:この平坦地の性格は不明、恐らく幕末の修陵の過程でできたものか?
 推定眉間寺跡5:現山陵内・山陵 中段の平坦地:客殿・庫裏などがあった平坦地を西から撮影。
◇2012/02/07追加:
上記の礎石については、以下の「眉間寺礎石とは考えられない」との言及がある。
  ↓
「奈良市付近の石造物(石造物の石材研究V)」奥田尚、考古石材の研究会、2011 より
聖武天皇陵西に「眉間寺跡石碑」(昭和24年年紀)があり、この北の平坦地に、平坦面が上になるように、割石が礎石のように置かれている。
 (上記写真・礎石1〜4)
この平坦面は火山岩に見られる摂理面で、加工した形跡は全く見られない。17石は全て同質の流紋岩質溶結凝灰岩AYで、宇陀郡一帯に広く分布する室生火山岩の岩相の一部に似る。この石は1mを越す大きさで、しかも割石であるので、トラック輸送 の発達で、しかも大きな砕石が出来ることが条件となるので、この石の採掘搬入は昭和45年以降が想定される。従って、礎石のように置かれる石は眉間寺に使用された石とは考えられない。

2012/02/09追加:
奈良在住(眉間寺跡近辺)の某氏より次の写真提供を受ける。

眉間寺参道跡:下図拡大図

左;大正10年以前眉間寺参道跡写真     右:現在(平成24年)眉間寺跡参道写真

 大正10年以前聖武陵参道:『「御陵遥拝帖」山陵崇敬会、大正10年』<未見>掲載写真と云う。出版年より大正10年以前の撮影であろう。
参道両脇には黒松が多く眼につく。
 聖武陵参道・2012年現在:松の大木は1本(若木が1本程度)のみとなる。陵墓の尊厳を尊ぶ立場でなくても、自然環境保全の立場から、書陵部は何をしているのであろうか。撮影年月は不明ながら、2012/03撮影と推定される。
 なお、某氏は次のように推測される。
大正期の写真の松は、眉間寺参道が陵墓参道に転用された可能性が高く、もしそうであれば、眉間寺があった頃の松であろう と。
 ※大和名所圖會(眉間寺全体図)の描く参道には見事に松が列をなす。参道の雰囲気も現在の陵墓参道を彷彿とさせる。
また、余談ながら、鳥居(拝所鳥居)は近年に木製から石造に造替されたとも云う。

2003/5/29撮影画像:
 聖武天皇陵      天皇陵参道      天皇陵拝所
 拝所東側平坦地: この檀は眉間寺伽藍とは無関係で幕末の修陵で形成と思われる。

2010/02/21撮影:
 佐保山陵:山陵拝所の森林中・山陵中腹に眉間寺伽藍があった。鳥居の向かって右の上方に多宝塔があった。
 眉間寺南門跡付近:推定
 眉間寺鐘楼道1:推定、写真下方 に明らかな路の痕跡が写るが、鐘楼に至る路の痕跡であろう。
 眉間寺鐘楼道2:推定、鐘楼に至る 路の痕跡、左手に写る高い造成面は多宝塔のあった平坦面の法面である。
 眉間寺多宝塔跡1:推定、この平坦面に多宝塔があったと推定される。地表には特に遺物は見当たらない。
 眉間寺多宝塔跡2:推定
 眉間寺多宝塔跡3:推定
 眉間寺本堂跡1:推定、推定多宝塔跡付近から本堂跡平坦地を望む。写真左手の方が本堂跡。
 眉間寺本堂跡2:推定、推定多宝塔跡付近から本堂付設の舞台跡を望む。3個の石が見えるが礎石であろうか。右手の一段上が本堂跡。
 眉間寺多宝塔本堂跡:推定、手前が多宝塔跡、多宝塔跡から本堂舞台跡を見下ろす、右手中央が本堂舞台跡。


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